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本当の願い

私は最近、心の底から願う本当の思いによく気が付くことがあります。

今までは、経済、仕事、人間関係、健康、この社会で生きていくうえで、こうであったらいいなとか、物理的な面であったり、目に見えるものを望んでいました。

なぜならその願いが叶うことが、私の幸福につながると考えていたからです。

ただし当然、今持っていないものを欲しがりますから、手に入れることに躍起になったり、手に入ったとしても失う恐怖、また私には手に入れられないのではないかという不安や心配の中でいつも生きていました。

そのため、いつも心が休まることも、満たされることもなかったのです。

表面的な願いは、何かを気付くのにとても大切だと思います。

確かにそれが、私の真の願いではなかったとしても、本当の願いに気が付くために必要な布石だからです。

ただ、いつまでもその表面のヒントだけを追っていては本当の答えには辿り着きません。

私たちはいつも、ヒントが答えだと思い込み、たくさんのヒントばかりを集めて、答えを見つけた気になっているのかもしれません。

私の本当の願いとは、物理的な面がすべて整う事でも、地位や名誉を獲得することでもなく、ただ純粋に自分を愛し、認め、尊重して生きたいと思っているだけなのだと気付いたのです。

ただ、私の心からの願いはそう思っていても、現実社会ではそうはいかないことがあります。

誰の支配も受けずに、どんなものからも束縛されずに、私を自由に生きさせてあげたいと願っても、一歩社会に出ると、個性を殺し、思いを封印して、外の環境に合わせないと生きていけない。

ですから、結局はいつの間にか尊重する相手が、私ではなく、それ以外になっていることが多く、もはや『本来の私を出す』という事は現実社会において不適合な生き方になることもあります。

その狭間で、生きづらさを抱えたり、どの様に生きたらいいかわからなかったり、逆に物理的なものを追い求め、すでに自分を見失っていることにすら気が付かないという事もあるでしょう。

またはそうすることが、人生だと思い込んでいることもあるかもしれません。

お金があれば、時間があれば、仕事が順調であれば、人間関係がよければ、ああであれば、こうであれば、といろんな願いは尽きません。

ただ、私は真の願いに気が付いた時、正直そんなことはどうでもいいと感じました。

それよりも、私を大切に生きたい、私の思いを尊重してあげたい、私が嫌がることはしたくない、そして、どんな面を持っていても、私のすべて認めてあげたい。

そう強く思うようになったのです。

みんな本当は心のどこかで、

『あなたはそのままで、すでに愛されている』

と言われたいと思っているのではないかと思うのです。

気が付くと私たちはいつも自分のあらを探し、欠点を見つけ、そこをまるで見張るように生きています。

毎日、鏡の向こうの姿にかける言葉を思い出してみるとよくわかります。

その言葉は愛にあふれた言葉でしょうか。

もしかしたら、顔のここは嫌だ、体型のこれを直したいなど、身体一つとっても受け入れていなかったり、そのままを愛することがなかなかできていないことも多いのです。

そこにあるのは、誰かとの比較、今まで認めてこなかったこと、環境、思いのクセなど様々な理由があります。

人生が80年だとしたら、日数で言うと29200日です。

そのうち、今の年齢を考えて、残りを考えてみましょう。

その貴重な時間を、自分を批判することや、否定すること、愛さないことに私は使いたくないなと思ったのです。

先程、現実社会は本当の願いに気が付くためのヒントだと書きましたが、もしかしたら、現実そのものには特に意味がなく、

『あなたは今自分に否定的になって生きていますよ』とか
『もっと私を愛して』

という、本当の願いに気が付くために、あらわされたものではないかと思うのです。

そのため、心は本当の願いに気が付いてほしいのに、ヒントの方に目が向き、時にはそちらに目がくらみ、惑わされてしまっていることもあるかもしれません。

私は本当は何を望んでいるのか、本質を見極め、私を生きていくという事で、心の目が開かれ、真の幸福を感じられるようになるのでしょう。

いかがでしょうか。

今日もお読みいただきありがとうございます!







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