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善意について

最近、善意というものが、実は非常にセンシティブであるということをよく考えます。

『良いことをしましょう』

というとても単純なことが、実は繊細で、取扱注意事項なのかもしれないということです。

読んでくださっている方の中には、心が優しく、また相手の気持ちに寄り添うことが出来る共感力の高い人も多くおられると思います。

見返りも求めず、他者に無償の愛を与えることが出来る人は、多くの人を救うでしょう。

世の中には多くの善意があります。
ボランティアや寄付など、与えるということです。

これは善意から生まれるものであり、溢れ出る愛を周囲に与えることが出来ます。

それによって、助かったり救われたりしている人もいるでしょう。
有名な人やセレブな方が、多額の寄付をしたというニュースも頻繁に見かけることもあります。

ただ、仏教の話で言うとお釈迦さまは、その逆を言っています。

弟子たちに、あえて貧しい人のところに行って、托鉢をするように言っています。
これは、貧困の状況のある人に功徳を積ませるためだからです。

ただ食べ物が欲しいだけなら、お金があり豊かな人のところに行けばいいのに、そうはしなかった。

ここには深い慈悲の心を感じます。

善意や与えるということを、もしかしたら私たちは軽く考えてしまっているのかもしれません。

欲しいものをただ与えるだけになると、場合によっては相手の自尊心を奪ったり、自立を阻むことになりかねない時もあります。

もちろん、本当に助けを求めている人に手を差し伸べることは大切ですので、境界線の見極めがとても大切になります。

しかし、境界線を見極めて、自己満足で終わらず与えられる人は、とても少ないかもしれません。

私も見極めが出来ない人の一人です。

お釈迦様の話に戻りますが、あえて貧困の状況のある所に行って、托鉢をさせたのはなぜでしょう。

貧困や病気、様々な問題を抱えている時に、人は心に暗い影を落としてしまうことや、心の中までも貧しい気持ちになってしまうことがあります。

貧しい気持ちと言うのは、心の中が悲しみや苦しみでいっぱいになったり、満たされない思い、みじめや孤独、欠乏感や不足感でいっぱいになった状態ではないでしょうか。

風船がそのような空気でいっぱいになって、今にも破裂しそうな状況です。

ただ、そんな時にも関わらず、たまたま困っている人を助けたり、辛い状況の人に手を貸すことがあった時、

今まで自分も途方に暮れていたはずなのに、身体が勝手に動いて、急に力が湧いてくることがあります。

パンパンになった空気を、風船からシューっと出すように、心の中の暗い影を一気に吹き飛ばしてしまう。

自分だって同じくらい辛い状況なのに、ありがとうと言われたら、心に優しい風が吹く。

お釈迦様には、誰もが苦しみの現実から、心の中に影を落とすことや、風船の空気がいっぱいになって、苦しんでいることが見えていたのかもしれません。

そして、それを解消するのは、周囲の人からもらう、
心からの『ありがとう』だけです。

私は『ありがとう』と感謝をすることは大切だと思います。
ただ、それと同じくらい心からの『ありがとう』をどれだけもらえるかも大切だと思います。

その『ありがとう』はお金では買えません。

『お金を出すから、私に心から感謝してください』
と言われたらどうでしょう。

私はちょっと複雑な気持ちになるかもしれません。
だから、『ありがとう』はお金では買えないのです。

お釈迦さまは、お金持ちのところに行かなかったのは、本当の意味での功徳を積む事とは、物質的な施しではなく、心の功徳を積むように伝えたかったのではないかと私は思っています。

心の功徳を積むためには、
心の底から『ありがとう』を言ってもらえることでしょう。

善意とは、そういうことに向けられる行いなのかもしれません。

いかがでしょうか。

今日もお読みいただきありがとうございます!









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