意識の方向
先日、『スマホを見ている時間』について、ふと頭に浮かんだことがありました。
何気なく、
『私がスマホを見ている時間って、どんな時だろう』
そんな考えが、どこからともなく浮かんできたのです。
スマホを見ている時とは、たいてい、時間があったり、他にすることがないとき、待ち時間、調べ物をしたい時、ニュースやSNSが気になるとか、だと思います。
本来、電話やメールという通信手段だけの役割だったのに、デバイスとして情報端末の役割を備えた瞬間に、なくてはならないどころか、手から離すのさえ困難な依存状態に陥るほど、生活は大きく変わりました。
今まで、知らなかった情報を知ることが出来るようになったり、スマホ一台で様々な機能まで兼ねそろえると、大きなメリットを感じますが、その一方で、いつの間にか何時間も見過ぎてしまったり、費やすお金も高額になって、デメリットもあります。
実は何年もスマホをやめる方法を考えていまして、家に電話を取り付けて、スマホを手放すことや、仕事の依頼は手紙で連絡くださいにするとか(笑)電話やメールだけのスマホで、とにかく機能が少ないものを探すとか模索している最中です。
今時、住所や連絡先を伝える時には、必ず日中に連絡が取れる携帯電話番号も記入することになっているし、持っていないということで支障が出る場合もあるでしょうね。
ですから、やはりすぐには手放せないのもわかっているのですが…。
何か良い方法はないものかと。
なぜそう思うかというと、あんなに見ていた動画やSNSも、最近は興味がわかなくなったのですが、
にもかかわらず、スマホへ手を伸ばすことが習慣化されているようで、理由もないのに見ていることもあるなと思ったのです。
また、これは私に限るかもしれませんが、スマホを見ている時間って、今向き合わないといけない何かがあるにもかかわらず、ちょっとそれから逃げている時というか、そこから一瞬向き合うのをやめられるみたいな感じがしたのです。
これは、砂糖中毒にも似ているかもしれません。
ご存知の方も多いと思いますが、体内が低血糖の状態になった時、脳はそのエネルギー不足を「お腹が空いている」と勘違いし、糖分を摂って血糖値を上げるよう指令を出します。
砂糖には、幸福を感じさせるドーパミン、セロトニン、ノルアドレナリンなど、脳内神経伝達物質の分泌を促す働きがあるため、血糖値が乱高下を繰り返すうちに、この快感がくせになるのです。
おそらくスマホ依存も、似たような構造ではないかと思います。
見る、という行為がすでにくせになっていれば、見ている内容に興味があろうとなかろうと、あまり関係がないのかもしれません。
なぜなら、スマホを見る、という行為そのものが必要で、それが脳内に習慣化されてしまっているからです。
この習慣を解くには、物理的に手元からなくすか、スマホに依存している、からくりに気が付く必要があります。
そのからくりとは、
『目の前の大事なことに向き合いたくない自分がいる』
もしくは
『今向き合うことに対して先延ばししている』
という、ある意味で、逃げのような状態に気が付くということかもしれません。
スマホが手から離れたら、多くの時間が生まれます。
疲れていれば、早く寝られるし、家族や周囲の人とゆっくりコミュニケーションをとることもできる、家事や生活を整えたり、趣味、知識やスキルを磨くために時間を使うこともできるはずです。
もしかしたら、そういうことが出来たかもしれない時間です。
例え、その時間に使わなかったとしても、スマホを見ている間はたいていぼんやりと見ているだけが多く、何も考えていないのであれば、それはスマホじゃなくても自然を見ていてもいいのです。
そう考えたら、ぼんやりしている時間をスマホに与えなくても、空を見ててもいいし、焚火でも海を眺めても、夜空を見上げていても良いということです。
それなのに、その素敵な時間ではなく、スマホに時間を費やしているのはどうしてなのでしょう。
ちなみに、私が頻繁にスマホを見ている時間は、いつもちょっと体調が悪い時です。
例えば、ちょっとお腹が痛いとか、頭が痛いとか、100%元気!というほどでもない時に頻繁に見ているなと思ったのです。
クスリを飲んでも痛みがなかなか収まらないとか、寝込むほどではないけれど、気持ちが乗らないとか、何となくすっきりしない時、やたらとスマホを触ってぼんやりしていることに気が付き。
もしかしたら、私は今この瞬間に起きている痛みから、なんとか目を逸らしたいと思っていて、その役割をスマホを見ることで、一瞬でも痛みから意識を遠ざけようとしているのではないかと思ったのです。
それ気が付いた時、ある記憶がよみがえりました。
大学の受験勉強をしている時です。
それまで私は多くの小説と漫画を持っており、勉強しようと机に向かうと、その瞬間漫画に手が伸びて(笑)
なかなか自制できませんでした。
そのため、部屋にあったテレビはコンセントから電源を抜いて見られない状態にし、多くの本が詰まった本棚を中が見えないように、布を貼り、カーテンのように覆いました。
これだけの事でしたが、意外にも効果があって、一年ぐらいはテレビも本も読まなくなったのです。
おかげで、いざ解禁になった時には、浦島太郎状態にはなっていましたが、ニュースや情報から離れたからといって、特に支障はありませんでした。
それどころか、あんなに見ていたテレビも本にも一切興味を示さなくなり、本は読みますが、今はテレビもないし、漫画もなぜか読まなくなりました。
今考えると、受験勉強という、ストレスを感じることから逃げたいというか、向き合うことを忘れたい気持ちが、意識を別の方向に向かせようとしていたのだと思います。
あの頃は、まだ自分ですべてを選択できない年齢でしたが、年齢を重ね、今この時代の中では、ある程度は情報の選択ができた方がいいのかなとは思います。
中にはたくさんの情報があっても、自制が出来る人も多くいると思いますので、すべてを遮断する必要はないです。
昔から外部情報をやたら遮断しようとしている理由に、私の場合、結局は、一度に一つの事しかできないんだとわかっていたからだと思います。
ですから、器用にこなせない私は、どちらか一方を遮断するしか方法を見つけられなくて、そのために今もどうやったらスマホを手放せるのかなと考えてしまいます。
ただ、最近は徐々に触る時間が減ってきて、メールや通話、仕事で使う音楽再生だけになってきたし、SNSはパソコンを使用したらすぐにオフにするし、頑張って遮断しようとしなくても、自然と触れなくなった気がします。
カリギュラ効果というか、ダメと言われたらやりたくなるので、強制されるよりは、自分で納得さえできれば、自然としなくなるみたいなものかもしれませんね。
いかがでしょうか。
今日もお読みいただきありがとうございます!
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