その優しさを自分に向けて
周りの人に親切にする。
多くの人が、人に親切にしたり、優しくしようということを考えていると思います。
最近はチャリティーやボランティア活動も活発ですね。
とてもいいことではありますが、その優しさを自分にも向けて、親切にする人に自分自身を含めてみるのはいかがでしょうか。
私は聖フランシスコの平和の祈りが大好きです。
皆さんも一度は聞いたことがあるかもしれません。
フランシスコの平和の祈り
主よ、わたしを平和の器とならせてください。
憎しみがあるところに愛を、
争いがあるところに赦しを、
分裂があるところに一致を、
疑いのあるところに信仰を、
誤りがあるところに真理を、
絶望があるところに希望を、
闇あるところに光を、
悲しみあるところに喜びを。
ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。
理解されるよりも理解する者に、
愛されるよりも愛する者に。
それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、
許すことによって赦され、
自分のからだをささげて死ぬことによって
とこしえの命を得ることができるからです。
この祈りは、平和を願って世界に奉仕することを願った祈りでしょう。
しかし、私はそれだけの意味ではないように思うのです。
そのまま読むと、例えば普段から人に親切にしたり、誰に対しても愛情をもって生きることが、例え小さな活動であっても、平和な世界を創るという意味だと思います。
自分を捧げるという内容から、どこかキリスト教特有の自己犠牲的なイメージを持つ人もいるかもしれません。
そういう考えを私も以前は持っていたので、自分は犠牲になっても人を助けようという気持ちが強くあった時期もありました。
しかし、聖フランシスコは本当はそう言っていないのではないかと、今は勝手に考えています。
この祈りは、聖フランシスコ自身に向けたものではないかと思っているからです。
平和の器になるには、まず自分の心が穏やかで平和であるということが必要でしょう。
したがって、
自分の心の中にある憎しみの感情に、愛を与えられる自分に。
また自分に人と争う気持ちが出てくれば、そのような自分を赦せる自分にしてください、といったように、
祈りの対象が、自分から他者へではなく、自分から自分へ、とも受け取れます。
そして、自分を慰め、自分を愛するようにと願い、本当は自分に与えることでしか満たされないし、自分を赦すことによってしか赦されないのだと言っているようにも聞こえます。
確かにそういうことありませんか。
まわりは気にしていなくても、自分だけが自分の過去をずっと赦せないことってありますよね。
そして、自分のからだを捧げて死ぬというのは、そういった様々な自分の感情を受け入れて愛し、自我を少なくし、本来の自分の心で生きるよう言っているのではないかと思うのです。
聖人だから、怒りや憎しみの感情がなかったのではなく、それを自分にあるものとして認めて受け入れ、祈りを通じて愛や赦しに変換することを願った。
それこそが聖人たる所以なのかもしれません。
前々回の投稿とも少し関連していきますが、
平和をいくら声高々に叫んでも、その叫んでいる人の心は、果たして平和なのかと私はいつも考えてしまいます。
まず自分の心を平和にする、自分が平和であるということ。
それこそが真の平和につながっていくということを、聖フランシスコはわかっていたのではないでしょうか。
本当にいいことや親切であっても、自分を犠牲にしたり、自分が苦しくなるのであれば、無理にしなくてもいいと思うのです。
近所に地域のゴミ拾いをしたり、落ち葉の掃き掃除をしてくれている高齢女性がいるのですが、出会ってお礼を言うと必ず、ここが汚い、地域の人が誰もしないと愚痴ばかり聞かされます。
せっかくいいことをしているのに、心は平和じゃないんだなって思ってしまいます。
それなら少々汚くてもいいから、いつも自分の好きなことして楽しんで、ニコニコしているほうがよっぽど健全なんじゃないかと思う。
助けてあげている、してあげているのだと、親切を自己肯定感をあげる道具にしていませんか。
それでもしないよりはしたほうがいい、という人もいるので、人それぞれだと思いますが、私はまずは自分、という風に考えています。
聖フランシスコがどのような気持ちで、祈っていたかは、あくまで想像に過ぎませんが、もし人に優しくしたい、親切でありたいのでしたら、そこに自分を含めましょうということは誤りではないと私は思います。
自己犠牲的なところがあるならば、聖フランシスコの祈りを自分に向けて祈ってみるのはいかがでしょう。
聖フランシスコもそれを望んでいるように感じています。
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