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離れる

人間関係において、パワーバランスはその都度変化していきます。

それはしばしばギブアンドテイクの面でおいても考えられるように、与え合う関係性であればいいですが、一方的に奪う人や、人を選んで奪うことを無意識にしてしまっている人もいると思うのです。

例えば、自分には与えられるものが何もなかったり、出すのを惜しんでいるだけならまだいいのですが、別の人から奪ってでも、利益を得たり、奪ったものを他の人に与えるような行為をしている場合もあると思うのです。

私たちは、この与える、奪うの関係性から離れることは出来ないのでしょうか。

そして、奪うような人から離れたいと考えても、結局は同じような人を引き付けたり、関係性が変わらないこともあります。

そこには何か理由があるのでしょうか。

例えば、何か物質的なものを満たしてあげたいと思っても、相手がそれを望んでいないのであれば、与えた側の自己満足になります。

また、そこで感謝されたいとか、ありがたく思ってほしいと思えば、結局のところ与えるという行為の裏にある、自己重要感を高めるために、物を使って周囲の人から感謝を要求したことになるでしょう。

それは結果として、与えているように見せかけた奪う行為でもあるのかもしれません。

消費社会の中で、たくさんの物にあふれ、また日々生きるために命をいただいている現代では、様々な面においても食物連鎖のようなヒエラルキーから離れることはできません。

勝てば官軍負ければ賊軍のように、強いものや成果を出せるものだけが、正義だと言わんばかりに影響力を出すことが出来、弱く声を出しにくいものは、いつも奪われる立場から逃れられない。

感謝をしている。

その言葉はとても大切かもしれませんが、感謝したからと言って、了承を得ずに奪われた時、その心が果たして癒されるのかというと、そうではないのかもしれません。

その循環から離れるという事には、大きな意味があります。

そこにあるのは、まず自分が奪わないという事をはっきり宣言することから始まります。

与えたい気持ちはあっても、同時に奪わなければいけなかったら、与えるという事がよいことでも、結果的にプラスマイナス0です。

ですから、奪わないと決めることが先なのかもしれません。

では、奪わないとはどうい事でしょう。

奪うという行為は、物質だけではありません。

例えば、時間や経験、スキルなど相手が持っているものを奪うという事もあるでしょう。

食べることはなかなか難しいかもしれませんが、少なくしたり、食べるものを選択することもできると思うのです。

その循環から離れるには、まずは自分がそうすると強く決意することからしか、人に何かを与えることは出来ないのかもしれません。

また次に、相手に奪わせないという気持ちを持つことも必要なのでしょう。

与える行為は崇高ですが、それは時に相手にとって良いことばかりではないかもしれません。

奪う行為を助長してしまうのであれば、奪わせないと断固として強い気持ちを持つこと、これだけでも十分効果はあると思います。

奪うことが良いとか悪いとは思いませんが、このまま続けることが、相手にとって本当に必要かどうかを考えた時、それをやめさせるとか、しないように促すこともできるからです。

毎日の生活を見直して、これは奪っている事なのかもしれないと思えば、それを手放すこともできます。

目に前にあるものが、どの様に作られて、誰に手でここまで運ばれているのか、またそれは誰かの犠牲の上に成り立っているものだったり、奪う行為の結果かもしれない。

そう思うものを一つずつ手放し、離れてもいいかもしれません。

もちろん、全てから離れることは出来ないでしょう。

しかし、出来るだけそこから離れて、奪わない、奪わせないと宣言することだけでも、おおきな力になると思うのです。

そして、その小さな決意はきっと周りにも変化をもたらすことになるでしょう。

いかがでしょうか。

今日もお読みいただきありがとうございます!








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