固定観念を疑え
私の考えや思考は、一体誰のものでしょう。
私は時々こうして、自分の思考や固定観念を疑います。
育ってきた環境や国、社会の中で培われてきた知識、こうあるべき、こうしなければならないといった固定観念は、果たして私自身のものなのだろうかかと考えたりするからです。
例えば、私はそうは思っていなかったり、生まれたての無垢の状態であれば、年長者や親、上司や先輩にあたる人が、生き方を教えてくれるかもしれません。
ただ、それはすべてにおいて、それぞれの固定観念や解釈があります。
また、インターネットやテレビなどSNSの普及では、世界中の様々な情報を瞬時に手に入れることが出来るようになりました。
それさえも、テレビの画面や手の中にある端末だけで見ているだけで、その映像の向こうに広がる世界が、真実を伝えてくれているのかはわからないのです。
だとしたら、今私が頭の中に持っている情報や知識が、まず事実かどうかもわからないですし、またそれを観たとしても、どう解釈するかも見る人によって違う。
そうだとわかれば、私たちの真実とは一体何なのでしょう。
事実だけは変わりません。
例えば、コップに水が半分入っているとしたら、それが事実です。
そこから、
もう半分しかないと考えるのか、それとも
まだ半分もあると考えるのかは、解釈です。
そして、どちらも真実です。
ですから、まずは事実を正確に見て、その解釈を私はどのように捉えているのかを知る必要があります。
そして、その解釈を観た時に、果たしてそれは自分のものなのかも知る必要があります。
家庭内や、社会の中で、
『コップには半分しか水がない』
という解釈の仕方をみんながしていて、その受け取り方が正しいという教育を受けてくれば、その固定観念は自然と刷り込まれていくでしょう。
私はある時、それは動画を観たり、スマホでSNSを眺めていた時なのですが、無性につまらないし退屈だなと感じたことがありました。
多くの場合が癖のように観ていただけなので、何も考えていない時間だったのですが、その時にふと
『なぜ私は観ているのだろう』
という疑問が浮かび上がりました。
そして、その理由を考えてみた時に、
『心がざわざわしているから』
という答えが出てきたのです。
私はてっきり、そのような情報を目に入れるから心がざわざわしていると思っていたのですが、実はそうではなくて、私自身の心が落ち着かない、ざわざわした状態だから、観ずにはいられなかったのだと気が付きました。
ちなみにざわざわと言うのは、これも表現しにくいのですが、大きく感情がぶれるとかとも少し違って、心の奥底で何かが落ち着かないとか、ノイズと言った方が、言葉ではわかりやすいかもしれません。
そう言う、心の奥の奥の方で、あまり心地が良くないノイズがずっと流れているような、そんな感じを受けたのです。
携帯電話が普及し始めたころに、すでに高齢だった叔父は、
『電車に乗っても、バスに乗ってもみんな下を向いて携帯電話を触っている。』と苦言を呈していました。
頭で考えることをやめて、誰かの言葉をそのまま受け取ることが果たしていいのかということを言っていました。
もしかしたらそれは、緩やかな洗脳という表現が近いのかもしれません。
私達は自分をいつも疑ったり、どの様な解釈で物事を捉えているのか、考え方のクセを観た方がいいのでしょう。
その考えは、思いは、果たしてどこから来たものなのか。
私は物事をみた時に、どのように解釈しているのか、などです。
現代は情報過多になっているため、心がざわざわして落ち着かなかったのは、そういうたくさんの声や情報、思考のおしゃべりだったのかもしれません。
それらを一旦静かにして、考える機能を取り戻すには、一度情報を入れるのをやめて、今あるもので不要な物を外に出す作業が必要かもしれません。
そのためには、一度すべてを疑い、固定観念の一つ一つを丁寧に点検していくしか方法はないのでしょう。
いかがでしょうか。
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