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その価値は変わらない
育った環境や学びの場所、生活を共にしてきた人の考えは、私たちの人生にも色濃く影響し、その影響のもとで、私という思考が作られていると言っても過言ではありません。
時折、自分の考えを述べなければいけない場でも、話す内容が私オリジナルのものではなく、誰かから聞いた言葉の模倣や、他からの刷り込みによる影響だと感じることも大いにあります。
そう考えると、私という存在があるようでないので、その存在意義を見出すためにも、いろんな結果を残して、その存在というものを世に出そうとしていることもあると思うのです。
私には何にもない。
そう思った時、私たちは今ここに生きている意義を見つけることが出来ません。
それどころか、迷惑をかけていることもあるのではないかと思えば、生きていることも苦しくなる時もあるかもしれないのです。
その考えは、成果主義によるものから出たものかもしれませんし、誰かからの刷り込みもあるかもしれません。
そして、今まで希望通りにならなかったり、何かで負けたと思うような出来事があれば、その姿を認めることも受け入れることも難しい時もあると思うのです。
ですから、何とかして成果を出して、私がここにいて良いという理由が欲しい。
そうやって、気が付くと成果を追い求めてしまったり、頑張りすぎて、時にはその状況に疲れて、追う事さえやめてしまう人もいるかもしれません。
私たちは何も追う必要はなく、そのままですべて素晴らしい存在なのです。
そうは言っても、私もこのように考えられないこともありました。
例え誰かに価値を認めてもらえたとしても、その言葉も信じることが出来ないのです。
なぜなら、私自身が私の価値を認めることが出来なかったからです。
その価値を認めることが出来ない時、他人の価値も認めることは出来ません。
ですから、私も人から見られたくない色眼鏡で、同じように周囲の人を見ていました。
今もそういうところが、全くなくなったわけではないでしょう。
しかし、そのようなものの見方は誤っていると感じることは多くなりました。
そう思えるようになったのは、存在と価値を認めることが出来るようになってからです。
自分を好きになれない時、または認めることが出来ない時、そして自分の存在が嫌だと感じる時はありますか。
そういう時こそ、実は誰よりも、私は自分を好きだと思っていることに気付くときだと思うのです。
本当はだれもが自分を愛し、大切に思っているのです。
しかし、時には思うようにいかなかったり、誰かの発言で自尊心を傷つけられると、期待に応えられない姿や、情けないところを認めることが出来ない。
本当は大好きだからこそ、そのような姿を受け入れることが出来ないし、見たくないのです。
ですから、私たちは実はそのように思っていることに気付き、誰よりも自分をすでに愛しているという事を認めるだけでいいのでしょう。
もしかしたら愛していることも愛されていることも本当ははわかっていても、そこを認めることが怖いだけかもしれませんね。
いかがでしょうか。
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