変化に気付く
最近ずっとネットニュースや、SNSなど、必要のない情報からは離れているのですが、そうすることで、感情の変化や移り変わりがとてもよくわかるようになりました。
今までは、どこか落ち着かない感覚があっても、それを言語化できずに、また自覚もできなかったため、理由もわからず悶々としていることがよくあったと思います。
そして、外側の状況に反応するように、イライラのような感情を発動させていたように思います。
ただ、その理由はわからなかったり、もともと私の中の感情であるのに、あなたのせいで怒りの感情が湧いてきたと、どこか人のせいにしていたこともあったと思います。
その時には、今みたいに感情の変化や、感情そのものを鮮明に感じることもできなかったので、感情自体を受け入れることもできていなかったような気がします。
感情を客観的に見られると、
『今私はイライラしているのだな』
と気付くことが出来、またその理由は何だろうと、振り返って考えることが出来るようにもなってきました。
当事者となって感情をダイレクトに感じるのではなく、一歩外側から見ているような感覚は、その感情を、自分の固定観念でジャッジするということからも離れることでもあります。
例えば、なにか揉め事が起きた時に、その当事者として話をするのか、それとも第三者の立場から話をするのか、という感じです。
当事者で話をするならば、おそらくどちらかが被害者で、どちらかが加害者であり、誰が正しく、誰が間違っている、という風に互いに正当性を主張したり、被害者意識も発動すると思います。
しかし、そこに立ち会う第三者の立場であれば、両方の言い分を平等に聞き、そこから冷静に、客観的に判断するでしょう。
また、客観的な立場であれば、どちらかに加担したり、どちらかの言い分を聞かないという事もありませんから、どちらをゆるすとかゆるさないもないのです。
そのため、揉め事の内容によっては、微笑ましい目で見てしまうこともあるかもしれません。
ただ、当事者からしてみれば、どんなに小さなことでも、互いのプライド賭けた出来事、主張の正しさ、正当性を認めてもらえるかどうかの大きな問題ですから、必死になるのは当たり前です。
しかし、いつもいつも揉め事の渦中にいれば、常にどちらが正しい、間違っているという判断を下さなければならず、また私以外の人間は、敵か味方か、みたいにどこか警戒モードも抜けないと思うのです。
そのため、警戒モードから離れ、第三者の立場をとることはとても大切でしょう。
とはいえ、第三者の立場だから、感情を感じられないという事ではありません。
その役割は私の中にいる、二人にお願いするのです。
ようするに、何かが起きた時、正当性をそれぞれ主張し合う二人の私がいるとします。
そういうイメージです。
二人は勝手にあーだこーだ言い合っていますから、そこに巻き込まれないで、第三者の立場から、両方の主張を眺めるだけにするのです。
そうして、二人が落ち着くのを待つことによって、もしくは時々声をかけるなどしながら、問題解決まで見届けます。
例えば、私Aが主張する内容と、私Bが主張する内容が大きく違った時に、
『私Aさん、それはあなたの思い込みですよ』とか
『私Bさん、その考えはあなたの想像であって、事実ではないですよね』
みたいな感じで、絡まった問題を紐解くように、少しずつ誤解を解くことが出来ます。
問題の中には、勘違いとか、そのように思ったとか、○○ではないか、みたいな感じで、事実とは異なっていても、それぞれが感じたことを主張している場合があるからです。
世の中の揉め事とか、喧嘩のほとんどは、見当違いだったり、誤解から生まれるのではないかと思います。
可愛い動物の揉め事ぐらいなら、それも可愛いなと思いながら観ていられますが、大きくなっていけば、規模は国や世界レベルになっていきます。
それが戦争だったりするのかもしれません。
ですから、世界の平和を願うなら、まずは自分の中の平和をつくることが必要です。
二人の私がいつも仲良く、揉め事が起きても、すぐに誤解を解くことが出来る状態でなければ、それも意味がないのかもしれません。
なぜなら、いくら世界の平和を叫んでも、私の中が常に戦争状態では、誰もその言葉を聞いてはくれないですし、誰の心にも響かないでしょう。
また、普段から小さな揉め事に気付き、大事になる前に対処しておけば、遺恨が残るようなことも、何かあるごとに過去の出来事を持ち出して、互いに応酬し合う必要もなくなります。
そのため、普段から小さな変化に気が付くというのはとても大切なのかもしれません。
いかがでしょうか。
今日も今日もお読みいただきありがとうございます!