条件付きの中で
先日、母と話している時に、
『こうしないといけない』と、母が強く言っているのを黙って聞いていました。
母は昔からそのような感じで、
『○○しなければいけない』
『○○すべきだ』という条件付きが多く、昔はその言葉が私をひどく苦しめました。
自分としては、母が望むようには生きられないことと、例え母の望むように生きたとしても、それは私の幸せではないとわかっています。
それなのに母に対して言い返すこともできず、また母のその条件通りに生きられない自分のことも、ダメな人間だと思うことがよくありました。
しかし、先日母と話しているときに、ふと母の気持ちが感じられたのです。
それは、母自身がひどく不安や恐怖を抱えていて、何かに頼らなければならないほどの怯えや、恐怖心を秘めているのが伝わってきたのです。
母自身も常にどこかで条件を付けられ、その条件付きの愛の中で生きてきたのかもしれません。
これが出来なければ認められない。
条件をクリアしていなければ愛してもらえない。
だから自分はそのような者にならなければならない。
この地球という場所では、常に条件を付けて、その中でしか生きられないようになっています。
おそらくそれは人間自身が生み出したエゴかもしれませんが、家庭内、学校、就職、結婚…。
頑張っても採用条件に達しておらず、選ばれないことの方が多いです。
それによって大きな挫折を感じたり、選んでもらうためには相手の提示した条件を無理をしてでも飲む場合もあるでしょう。
本来、生命というものは無条件の愛の存在なのです。
条件付きの愛の世界で生きる、無条件の愛の存在。
地球を生きるすべての生命は、まるで闇の中にいる光のような存在としてあるのでしょう。
中にはあまりに闇が濃く感じられて、光り輝くことを自らやめたり、自分が光る存在だということを忘れてしまっている存在もいる。
むしろ闇の中にいる方が楽だと考える場合もあるかもしれません。
前回、子猫の話を書きましたが、
『だいじょうぶよ』と子猫を保護してくれる人間は、
子猫が従順で、人間の言うことをよく聞いて、自分の思い通りになったり、利益になるから助けようとしているわけではないと思うのです。
むしろシャー言ってるし。
病気だろうとボロボロだろうと、条件フィルターで子猫を見ているのではなく、ただ生命を助けたい、その一心で、生命そのものを見ていると思います。
猫も、もし人間が犬を望んだとしても、何とかして犬になろうとはしないでしょう。
犬にならなければ餌をあげません、と言われても犬になろうともしません。
なぜなら、それ以外の存在にはなることが出来ないからです。
なれないんです(強調)
存在(生命)=無条件の愛
私達は本来無条件の愛としてしか生きるように作られていないのです。
なれないんです(強調)
ですから、自分の事を無条件の愛の存在であると、本当は思っているし、もしかしたらすでにどこかでわかっているかもしれません。
ただ、現実の世界では社会がそれをゆるさない。
あなたが無条件の愛?
何もできないのに?
でも、心の中では叫んでいるはずです。
私は無条件の愛である。
素晴らしい存在なのだと。
ではなぜこの世界は条件付きなのか。
なぜこのように生きにくいのだ!
シャー!
で、なぜこんなに苦しいのかというと、
もしかしたらそれは、
自分の方がこの世界に条件を付けているからではないでしょうか。
世界は平和であるべき、国や社会は国民に優しくないと、会社がこうだから、家族がこうしてくれないといやだ、といった形で、自分が外に向かって条件を提示してはいませんか。
そして、条件に合ったものだけを採用しているので、自分にだけには採用したものが見えるようになっています。
ですので、条件に合わないものは、おそらく目にも耳にも入ってきていないはずです。
類は友を呼ぶとか、似た周波数を出し合うものとしか出会えないのはこういう理由かなと思います。
趣味や好みが人それぞれに違うように、100人いれば100通りの条件があるでしょう。
好きなものも嫌いなものみんな違うわけですが、好みや個性、性格、生き方、すべてを含めて相手そのものを見て、受け入れることが出来ますか。
中には、自分と趣味や考えが合わない人を、自分とは違うと受け入れようとしなかったり、論破しようとしたり、自分のほうが正しいと考えてしまう場合もあるでしょう。
ですので、自分がすでに世界に条件を提示している以上、あなたも条件付きでしか世界からは見られないということです。
私がなぜそう思ったかというと、私自身が母親はこうだったらよかったのにとか、考えが違う人に対して受け入れようとしなかったところがあったからです。
世界中を条件付けて、私の条件に合わない人を除外します、受け入れませんって言っているのに、私のことは条件付けないで受け入れなさいよって、よく考えたらおかしな話です。
また世界に条件を付けているということは、その世界の中にいるあなた自身も自分に条件を付けている可能性があります。
例えば、どんな自分であってもすべてを愛することが出来ていますか。
身体が弱かったり、学校に行けない、仕事ができない、人間関係がうまくいかない、愛する人にうけいれられない、そんな自分でも最高で素晴らしい人間だと思えますか。
もしかしたら、人生が思い通りに行っているときの自分は好きだけど、そうではないときの自分は嫌い、と思っていませんか。
ではさらに、身体が不自由で、寝たきりだったり、誰かのお世話にならなければ生きられなければどうですか。
その時に自分を無条件の愛の存在であると、存在するだけで素晴らしいと果たして思えますか。
おそらくほとんどの人がその状況をつらく感じるでしょう。
そして、私は無条件の愛の存在で、存在そのものが素晴らしいのだ、なんてなかなかいえないのではないでしょうか。
それどころか、私は何のために生きているのだろうと考えてしまうかもしれません。
よく生まれつき体が不自由な人に、
やれカルマだとか、何か先祖がどうとか、まるで過去に悪行を起こした報いかのようにいう人がいますが、私はそうとは思っていません。
見える能力がありませんので、自分勝手な考えにはなりますが、
あえてその身体を選んで生まれたと思っています。
それは、生命とはすべて無条件の愛である、ということをその身体をもってして、教える役割を選んで生まれてきていると思うのです。
そして、その人生を選んだということは、非常に勇敢で強い魂だと思います。
社会の役に立つこと、迷惑をかけないことが素晴らしく感じられ、誰かが作ったであろうある一定の基準に達していないと、存在価値を見失ったり、生き方を見失ってしまうときもあるでしょう。
しかし、私たちに条件ははじめからなくて、無条件にとても愛されている存在だということと。
条件自体がそもそも存在していないということです。
それなのに条件を付けて生きるということは、背負わなくてもいい負荷をあえて背負って歩くことを自分で決めたとしか思えないのです。
それはやはり魂の成長のためだったかもしれませんが、それは本来の姿ではないと思うので、気付いたらもう下ろしてもいいでしょう。
いかがでしたか。
生命すべてが無条件の愛の存在だと思うことは、存在価値を認める言葉だと思います。
何物にもなろうとせず、
ただ居ることが世界を幸せにする、生命とはそういう存在です。
シャー!
今日もお読みいただきありがとうございます!