生き方の教科書
多くの偉人や先人たちは、歴史や興した業績の中で、私たちに生き方を指南してくれています。
そのため、それらを示した書籍や歴史は、私達の生き方の教科書になっているものが数多くあります。
しかし、大変わかりやすく残してくれているにも関わらず、私たちはあまり参考にできていないのかもしれません。
そして、それぞれの人生の中で、悩み苦しみ、生き辛さを抱えている人も少なくないでしょう。
情報社会の中で、たくさんの人の生きてきた証を知ることが出来ていますし、同じ人間のすることに大きな違いはないはずです。
ただ、時にはまるで、それが自分の人生とは違う夢物語のような感覚にもなり、知れば知るほど、差を感じるような焦燥感もあるかもしれません。
その理由は、先人たちは、生きるヒントや気付きは与えてくれるけれど、答えは自分で見つけないといけないからです。
私達はいつも答えを探しています。
そして、その答えを与えてくれる人、本、教育、さまざまな場所に行ってこういうのです。
『どうか私の人生の答えを見つけてください』
これは言い換えれば、
『私の肩から出ている、この腕というものの動かし方を教えてください』
と言っているようなものです。
そうすると相手はこう答えます。
『あなたは動かし方を知っているはずです。なぜなら、思い通りに動かせるのは、あなただけなのですから』
私達はすでにHow to、方法ややり方を知っているはずなのです。
ですから、その方法を自分の中から探したり、ヒントを探せばいいのですが、それをしないで、先に答えの方を得ようとしている時もあるのかもしれません。
それは、腕を動かす方法を考えるのではなく、
『私は何もしませんから、あなたが私の腕を動かしてください』
と言っているのと同じで、自分の人生を誰かに丸投げしてしまっているような感じにもなってしまうでしょう。
腕を上げるやり方も、あげる高さも、スピードもみんな違うので、その上げた結果だけをみても、それがすべての人に通用するかはわからないということ。
それは、人の意見や生き方は、参考やヒントにはなるけれど、それは自分の人生の答えではないということです。
そこに気が付いていくと、人生とは、自分に答えを問い続けることだということがわかります。
私達はすでに教科書であり、問題集であり、答えです。
ただしそれは、今ここにいる『私』だけのオリジナルのものであり、他の人に気付きやヒントになったとしても、あくまで『私』だけのものです。
それがわかれば、相手を私の枠にはめることは出来ませんし、考えを押し付けることは出来ません。
その逆もしかりです。
私はこう思います。
私を知りたいと。
お金が欲しいとか、豊かな生活や仕事、満たされた人間関係。
これらはもしかしたら、ある程度努力すれば出来ることかもしれません。
しかしそれでは私は満たされないのです。
いくら物理的に満たされていても、私を知らなければ、いつまでたっても心は落ち着かず、誰をみて生きていけばいいのかわからないのです。
西へ東へ、教えてくれそうな人がいると聞けばそこへ行き、知っている本があるかもしれないと本を買い、そうしてこういうのです。
『どうか私を教えてください。』
生き方の教科書は私の中にあるのです。
その見つけ方も、みんな自分が知っているのでしょう。
いかがでしょうか。
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