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戦うのをやめる

前回の投稿と少し関連がありますが、

心の傷が癒されていない時、その傷が何も覆われていなくてむき出しになっていれば、おそらくそこに自分も敏感になっていると思うのです。

そこに触れないように慎重になったり、人からも当たったり、ぶつかられないように、そこだけを守るように生きるようになるかもしれません。

また、傷に触ったり、当たったりしていないけれど、ぶつかってきそうな人がいれば、そこに対してどこか過剰に反応し、強い警戒態勢に入るかもしれません。

人と人との衝突や、うまくいかない人間関係は、そういうところから起きるのではないでしょうか。

要するに、見えない敵に対しての過剰な防衛反応だと思うのです。

本当は、傷が出来た時にすぐにその傷を癒す時間があったり、薬を付けてくれる人がいたり、治るまで動かないでいいよと、守ってくれて代わりにサポートしてくれる人がいたらよかったのでしょう。

しかし、そうできないことも多くあります。

だから、その傷が治ったふりをして、傷を隠して生きていくしかなかったのかもしれませんし、そうするしか生きるすべがなかったのかもしれません。

ただ、このまま傷を抱えて生きていても、辛いこともあるでしょう。

ですから、傷があるという事に気が付いた時には、その傷をもう隠さないことと、癒すことを考えればいいのだと思うのです。

傷があることは弱点や欠陥ではありません。

スーパーでは見た目が良い野菜は手に取られやすく、形の整っていないものはあまり売られていません。

心も同様に、傷があることをどこか否定していて、見ないようにしたり、無意識に避けてしまっている時もあると思うのです。

また、今までずっと一人戦闘態勢でいれば、戦いの場で弱点を持っているという事は致命的になります。

それは空想上の敵に対して、ポイントを与えてしまっているようなものですから、何とかしてその部分は隠したり、なかったことにしないといけなかったのでしょう。

空想上の敵とは、過去の記憶や、その時の思い、忘れられない感情かもしれません。

そのような敵はすでにおらず、今懸命に戦っている相手は幻なのだと、もしかしたら心のどこかではわかっていても、その戦いをやめることも、戦いから離れることも出来なくなっている時もあると思うのです。

その時には、そのような心もまた認めてあげてもいいのではないでしょうか。

私はいつも見えない敵と戦っている、そう気が付いた時点で、その傷はすでに半分治ったようなものです。

ですから、何とか癒そうとしたり、戦う自分を責めるのではなく、認めるだけでいいのかもしれません。

『もう戦わなくていいのだ』

そして、自分にこう語りかけて、抵抗や違和感がなければ、その傷はすでに癒されているでしょう。

今まで、戦うことが生きることとか人生だと思い込んでいれば、戦いがなくなればどう生きていけばいいのかわからなくなったりするので、むしろそれを手放すことが出来ないという事もあったかもしれません。

その時にはむしろ、戦いを呼び起こすような出来事を引き起こしていたかもしれません。

その幻想の中でこそ生きてこられたなら、それもまた必要なことだったのです。

ただ、時間の経過と共に、それも手放す時期が来たのであれば、その場所から離れてもいいのだと、戦わないことをゆるすという生き方もあると認めてもいいでしょう。

そのタイミングは、人それぞれでしょうし、その時間の中で培った思いは決して無駄ではないのだと思うのです。

いかがでしょうか。

今日もお読みいただきありがとうございます!




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