持ち越さない
様々な手帳やノートなどに、日々の出来事や予定、タスクなどを書き留めている方も多いでしょう。
私もいろんな方法でアウトプットを行い、行動記録、予定、現在の思考を書き出しています。
午前中静かなうちに、だいたい2時間ぐらいひたすらアウトプットの時間にして、思いを外に出しています。
日中は動きながら、その都度生活記録を取り、夜はその一日の振り返りと、日中に出てきた思考をまとめたりしています。
私はおそらく言語化が苦手なので、思ったことを言葉にするということを意識したり、見逃さないようにしてはいますが、どんどん溢れ出てくる思考に対して、あわわ…とついていけなくなっていることもほとんどです(笑)
日中はメモやA4の用紙にササっと殴り書きして、夜に書いたものをみて、必要な内容を書き残したり、まとめたりしています。
昨晩、数日前の日記を見直していたら、面白いことがたくさん書いてあって、その頃の私に対して、何だか微笑ましい気持ちになりました。
数日前でも、もう書いたことをほとんど覚えていません。
それどころか、その文章を書いた時の気持ちすら思い出せませんでした。
私が書いているのだから、読めばその時の気持ちが、すべて甦ると思っていましたが、そんなことは全くありません。
むしろ、
『これを書いたのは、一体誰ですか。』
ぐらいに、今この瞬間の私と、かけ離れているような気がしました。
もしかしたら思考と言うのは、私の手から離れた瞬間に、もう私のものではなくなるのかもしれません。
例えば、今私が手にペンを持っているとします。
私がペンをしっかり握っていれば、
『私に使われているペン』という存在になったり、
『私の手に握られているペン』という風に、私が主体になって、私と共に動きがあります。
しかし、机の上に転がっているだけだったらどうでしょう。
それは他と同じ、ただのペンになり、それ自体には動きはありません。
思考や記憶も同じかもしれません。
私がしっかりと握っている間は、私の思考、私の記憶として常に一緒に動く存在となります。
そのため、私がさまざまな経験や行動をするときに、ともに握り続けている思考や記憶も一緒に動き続けることになります。
新しく挑戦をしたい時、過去の失敗を握りしめたままでは、躊躇してしまうこともあったり、また同じ失敗を繰り返すのではと、勇気が出なくなるのはこのためかもしれません。
ですから、私の思考や私の記憶を、ただの思考と記憶にしてしまう。
そうすることで、必要ないなとなったものは、いつの間にか自然と手から離れているのではないでしょうか。
もしも、毎日生きた証に、ひとつ荷物を持つとすれば、その荷物はどんどん多くなるでしょう。
その荷物の中には、よく見てみるともうあまり必要がないものがたくさんあるかもしれません。
着られないサイズの洋服、壊れたおもちゃ、買ったけど使う必要がなかった道具…
だけど、私自身にはなぜ持っているのかも、手放さない理由もわかりません。
ですから、一旦机の上に出して、ただの思考とただの記憶にして、残すか残さないかはその思考と記憶に委ねます。
するとさっきまで、しっかりと握っていた思考や記憶が、ふっと消えてなくなる。
なぜなら、私が手を握るのをやめたら、それは形のないただの思いだからです。
そうやって、私がいつまでも握るのをやめて、すべてを自由にさせてあげた時、本当に大切な思考と記憶だけが残り、身体が軽くなる。
それを日々行うことは、フットワーク軽く行動するのに役立つのかもしれません。
私の場合はそのためにしているというよりかは、毎日の自分発見を楽しんでいます。
それは、今まで私という存在に近すぎたのを、少し遠くから見るような感覚になります。
皆さんも新たな自分を発見してみませんか。
いかがでしょうか。
今日もお読みいただきありがとうございます!
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