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委ねて捧げる

恐怖心を感じたことはありますか。

私は、恐怖がそのまま服を着て歩いているような人間で、恐怖を通り越して、発狂しそうなほど強い怯えや、極度の緊張感の中で自分は生きているなと感じていることが多くありました。

それも少しずつ向き合うことで、段々とその気持ちは薄れてきていましたが、私の中からはすぐになくなることはありませんでした。

なぜなら、今までずっと握りしめて生きてきたものを手放した途端、どの様に生きたらいいかもわからないからです。

いつの間にか、恐怖ともに緊張して生きるという事がむしろ私自身、私の生き方、アイデンティティのようになっていて、他の生き方が出来なかったのでしょう。

恐怖を感じるときに、いつもそこには悲しみもありました。

強い悲しみとそれがまた起きてしまうのではないかという恐怖が、私の中から離れることはなく、同時に悲しみの人間だなとも思うこともあったのです。

誰でも悲しい経験や、またそのようなことがおきるのではないかという恐怖はあるでしょう。

それを時間と共に心を癒し、また周囲の人の助けや環境によって、そこに対する思いを手放すことが出来ると思うのです。

しかし、私のように本人が手放す許可を出せていなかったり、手放したいと思っても環境や周囲の助けなど、支えがなければ一人ではどうにもできない問題もあると思うのです。

その時には、恐怖や悲しみを委ねて捧げるという事をしてもいいかもしれません。

出来ないことを何とかしようとするのではなく、もっと大きな視点で見ている存在に任せるのです。

それを人によっては神仏と言うでしょうし、潜在意識とか自分の中にある大いなる存在、でもいいかもしれません。

手放そうと頑張る時、そこには手放せない自分の気持ちが存在しています。

結局のところ、頑張っても何も変わらないのは、いつも自分の力で何とかしようとしているからです。

私が何とかしなければ、と強く思えば思うほど、苦しみは強く、またそこに対して執着も強くなるのです。

では、委ねて捧げるとはいったいどういう事でしょう。

そこに在るのは必ず解決してくれる、という信頼と、これは私にはどうしようもないことだと理解することだと思います。

例えば、私は家をつくることも設計することもできませんが、家をつくるまえから、この家が壊れたらどうしよう、この家に住めなくなったらどうしようといつもその恐怖に怯えて、震えているとします。

家はまだできていませんし、作る計画さえ立っていないのに、その恐怖に怯えて震え、ストレスで発狂しそうになっているとしたらどうでしょう。

まだできていない上に、作るのも設計するのもその道のプロの方に頼むのに、何をそんなに恐れているのか、と思うでしょう。

それと同じで、専門の分野を任せるという事と、いくら考えても私にはどうしようもない問題を考えていても仕方がないのです。

ただ、そういう恐怖や悲しみを抱えてしまったのには必ず理由があり、それを知り、委ねて捧げない限り本来自分を取り戻すことは出来ないのかもしれません。

もしかしたら、必要以上に責任を抱え込み、私のせいではないかと思うことがあれば、何とかしなければと思う気持ちも出てくるでしょう。

そのような気持ちすらも、自分で何とかするのをやめるのです。

病気になれば病院に、何か物が買いたいと思えばその場所に行くように、私たちの生活の中には常にその専門家がいます。

スーパーに行って、病気を治してほしいという事がないように、きちんと学んだ人のところに行き、正しい治療をしてもらうと思うのです。

ですから、全てを抱え込んだり、一人で何とかしようとせず、その思いすらも委ねて捧げ、あとは任せるしかないのでしょう。

問題を手放すときに、その問題が自分の手から、他に移動するイメージがあります。

その先には必ず手を貸してくれて、問題を解決してくれる存在というのがいるのです。

そのためにはまず認めなければいけません。
そして、助けて欲しいと言わないといけないのです。

私は何を問題だと思い、どの様な感情でいるのか。
または、それを手放すと私はどうなるのか。

そして、信頼して委ね捧げたら、後は正しいタイミングを待つだけでしょう。

助けて欲しいというまでには、それも時間がかかるかもしれません。

ただ、その思いは必ず通じ、委ねて捧げ続けることで、問題は少しずつ改善していくのではないでしょうか。

いかがでしょうか。

今日もお読みいただきありがとうございます!


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