尊い
尊敬する人はいますか。
誰かを尊いと思い、敬ったりすることはあるでしょうか。
もしそうであれば、そこに自分を含めてみませんか。
自己を肯定するときに、言動を認め、受け入れるという事はとても大切でしょう。
時に私たちは、自分に対して世界で一番厳しい言葉をかけていることも多く、罪の意識を感じたり、過去の行いを責めたり、今の状況に対しても否定や拒否、批難する気持ちが大きく、強く出てくることがあります。
世界中があなたを認めていたとしても、私たちは、何より自分自身からゆるされていないことがあるのです。
また、無意識に創りあげてしまったセルフイメージは、私たちを型にはめたり、固定観念を強くしています。
それはまるで、窓はいつも開いていて、身体は自由、外からは出てきませんか、という声が聞こえているにも関わらず、私はここに縛られていて出ることは出来ないのです、と言って嘆いているようなものです。
そのことに気が付けば、実は私たちはいつも自分で自分の事を縛っているのに、縛られていると思い込んでいたのだ、という事がわかります。
また、窓もいつも開いているのに、外に出ることを拒否しているのは私である、という事にも気が付くのです。
そこに気が付いたら、まずは私を認めることからしか、段階的に先には進めません。
なぜなら、縛られていると思い込んでいれば、いくら窓が開いていて、外に自由に出られることがわかっても、出ることが出来ないからです。
ですから、実は私は誰からも縛られておらず、縛っていたのは他ならぬ私自身であったと気付くしかないのでしょう。
その気付きがあれば、私はなぜ私を縛っていると思い込んでいたのか、という答えも見つかります。
そうして、私は本当はいつも自由だったのだということがわかるのです。
これは自らを認め、肯定するという作業にもなります。
言い換えれば、愛するとも言えるでしょう。
私を愛することが出来た時、初めて窓の外から誰かが手を振りながら、何かを叫んでいる声が聞こえます。
その人は一生懸命何かを言ってくれていましたが、今までは聞き取れなかったり、何を言っているのかわからなかったのです。
しかし、私を愛するということが出来た時、始めてその人が、
『外に出てきませんか』
と言っているのだとわかるのです。
この、外に出るという事は一体どういう事でしょうか。
今までは、私という小さな小さな型の中だけで生活をしていました。
そのため、壁一枚隔てた向こうに、果てしない大きな世界が広がっているという事に気が付かなかったのです。
私という存在もまた、その小さな型の中で、それ以上は大きくなることはなく、小さくなって生きていました。
その中で生きないといけないと思い込んでいたので、型に合わせて私を小さくしていたのです。
しかし、実は外に出た瞬間に、実は私自身はとてつもなく大きな存在であったという事に誰もが気が付くのです。
それは、私たちが愛されているという事や、認められている、すべてを肯定されている、という事よりもさらに上の、存在そのものが喜びであり、祝福されているという事だと思います。
『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』
(イザヤ43:4)
そして、私のことを尊いと思えることが出来た時に、初めて周囲の人が目に入るようになります。
それまでいつも周りには人がいたのに、そこも見えておらず、私はずっと一人だと思い込んでいたということです。
周囲の人もまた、存在そのものが喜びであり、祝福され、尊いのだということもわかってきました。
今までは、身体を小さくして、人の声に耳を貸さず、周囲も見ないようにしていたかもしれません。
ただ、それは私という存在が一体どういうものなのか、を知るためには必要な時間だったのでしょう。
なぜなら、一度小さくならないと、大きな自分というものも知ることは出来ないからです。
ですから、小さくなっていた時もまた必要な時間であり、あえて自らが作りだした貴重な経験かもしれません。
その経験を踏まえたうえで、すべての生命、万物は喜びであり、祝福された存在であるということに気が付くのかもしれません。
いかがでしょうか。
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