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当たり前に


こんな風に生きたい。

誰しも一つは望む生き方があると思います。

私も同じで、こんな風に生きたいなぁというものがありました。

でも、ただそれは自分が望むというよりかは、社会の中でこの方がいいとか、家族に心配をかけないとか、将来や老後のことを考えてというものも含まれていて、

その結果の中で、こんな風に生きたいなぁという感じでした。

ですので、周りのことを考えたり、先のことを心配するのをやめて、

本当の心のままに生きたいようにできたら、それはとても幸せだなと思います。

ただ、何かに制限されなくて、自由を獲得すると、なんでも好きに出来るようになると思いがちですが、もしかしたらそうではないのかもしれません。

自由になればなるほど、自分で立って歩かないといけなくなるので、

他者からの制限はなくても、自分から制限をされることになります。

自分に厳しいと、制限もきつくなったり、他者や社会の制約や制限はとても優しく出来ている場合もあると思うのです。

ですので、もしかしたら自分で自由を制限するか、他者からのものかの違いだけで、

私たちはなくすことのできない制限の中で生きていて、それに抗うことは出来ないのかもしれません。

抗うのをやめて、ただ待つ姿勢になる。

自分から何かをしに行かなければ、取りにいかなければならない、と考えることもあるでしょう。

行動することで結果も生まれます。
何もしないなんてできるのですか。

と、思われるかもしれません。

実際には、何もしないでという言葉になるかもしれませんが、

普遍的感謝、今あるものに感謝する、をし続けることで、さらに与えられる経験を得られるのではないでしょうか。

私たちはいつも与えられることに感謝を述べます。

してもらった
与えてもらった

だから、感謝します、という形です。

しかし、これでは与えられなかったら感謝はできなかったり、感謝の気持ちが湧き出てこないことになります。

これはまるでお互いにとっての取引のような形になるため、恩恵的感謝となります。

普遍的感謝とは、良いこと、与えられることを感謝するのではないので、

中には、あまり望んでいない経験をした、ということがあっても、その経験に感謝とか、

顔の見た目のこの部分が嫌だなと思っても、身体があることに感謝すること。

恩恵的感謝だと、良いことがあると感謝、美しい顔であれば感謝、となりますので、欲の心といいますが、

もっともっとみたいにさらに望む気持ちも出てくるかもしれません。

個人的な感想にはなりますが、普遍的感謝に変えてからは、恩恵を受けるようなことがあってもなくても全て感謝だと思うようになりましたし、

また恩恵があったからといって、
まるで奇跡だ!とか騒ぐこともなくなりました。

なぜなら、毎日ずっと奇跡の状態なのですから。

そう考えたら、感謝ってとても不思議で深く、

実は感謝することにはある程度技術も必要なのではないか、と思うようにすらなりました。

本当の自由とは、普遍的感謝の中から生まれてくることかもしれません。 

昨夜夢の中で、このような声を聞きました。

物事や出会い、全てにおいて一緒、良いとか悪いで分けているのは自分だと。

ですので、カテゴリー別にそれぞれの箱に入れるのではなくて、全て同じ箱に置いておいていいし、全てが感謝の存在だと感じました。

いかがでしたか。

感謝も技術が必要ですね。
感謝の反対語は当たり前、でしょうか。

当たり前のことに感謝すること。
感謝し続けることが当たり前になること。

一緒に普遍的感謝をしてみませんか。

今日もお読みいただきありがとうございます!

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