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世界で通用しない日本の「責任を取る」

「責任」とは何だろう?「責任」という言葉はどのように使われているだろうか?「責任を取る」とよく言われる。ほとんどの場合それは、物事が予定通りにならなかった場合に「責任を取る」イコール「辞任する」という使われ方だ。

しかしこれは英語の考え方すると、非常におかしなことになる。英語ではaccountability、あるいはresponsibilityという。英語などのヨーロッパ語圏、もしかすると日本以外の文化圏では、責任という言葉の意味が違う。責任がある人には、責任を取って物事を解決するのが当たり前だからだ。「責任を取れない、あるいは取れなかった」という文脈では使われない。

私は以前から、日本語の「責任」と英語のresponsibilityあるいはaccountabilityの大きな差で話が通じないときに、非常に困ったものだ。ここで実際の例を出すことは差し控える。似たようなケースの架空の話を出したいのだが、ちょっとすぐには考え付かない。それよりは、この相違点を今のタイミングで指摘したいのだ。

英語のResponsibilityはやり抜いて当たり前。それに対して日本語の責任はできなかったときに謝るためにつけるラベルのようなものだ。

「日本人は責任を取らない。責任という発想がない。誰も決断できない。誰も物事を変えられない。」世界は日本をそう見ている。

自粛しかお願いできない政治。効果がなくてもそれ以上できない。法律に書いていないことはできない。なぜリーダーとして個人の責任でそれ以上のことができないのであろうか。人命を守るべき緊急事態では、法律に書いていないことも実行するのがリーダーの責任というものだ。何も総理大臣だけではない。揚げ足をとるのを専門にしている野党も同じだ。それが議会制民主主義の議員、つまり国民を代表するリーダーというものだ。

自粛の要請だから無視する経営者。業績の悪化を容認してでも社員や家族、地域の人々の健康にプライオリティを置けない会社経営者。会社が存続するための社員の命より大事なものは無いであろう。会社が存在する基盤となる人間社会が崩壊しかねない状況をどう考えているのだろうか。

今の日本の混乱は、日本が第二次世界大戦へ突き進んだ状況と瓜二つだ。皆が「おかしい。なんとかしなければならない。」と言いながら、誰も何も変えられなかった。つまり誰も責任を取る行動をしなかったから戦争へ突き進んでしまった。

責任ある立場にいる人は、責任を取るために前に進むことを考えて欲しい。責任を取って辞任すれば済むこと、という考えは通じない。行動あるのみである。

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