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クリティシスム宣言

「批評家の存在意義はない」
「アーテイストのなりそこない」
「批評するんなら自分で作ってみろ」

批評家について、古くからこんな意見をよく見かけます。それに対して批評家サイドはお得意の批評的レトリックで反論する、というのがお決まりです。実際多くの批評家はこういった意見を批評という行為に対する無理解によるもの、と思っていることでしょう。

しかしながら、本当にそうなのでしょうか。こういった意見は古今東西でみられるものですし、芸術家サイドがこのように言及することも多いです。「これまで評論家の銅像が建てられたことがあったか?」というのは作曲家シベリウスの有名な言葉です。
それを直ちに「無理解」と断じてしまうのは早計だと、私は思います。

なぜこのような意見が見られるのでしょうか?それは、批評が芸術とみなされてないからではないでしょうか。


芸術の中の批評性

そもそも、芸術には批評性が多かれ少なかれ含まれているものです。たとえば印象派は「印象しか描かなくても良いのでは?」という、従来の芸術に対する批評の結果としての表現に他なりません。

はっきりとした輪郭はなく、印象しか描いていない

他にも、例えば岡本太郎は当時価値がないとされていた縄文土器の造形の素晴らしさを説き、作品にもその美学を取り入れています。

縄文土器の造形を現代化

こういった批評を内在した芸術は、現代芸術以降に顕著に表れたものでしょう。デュシャンがただの便器を芸術と言い張ったところから「コンセプトアート」の概念が生まれ、現代の芸術作品には多かれ少なかれコンセプト=批評の要素が入っているというわけです。

泉は芸術自体への批評になっている
批評色の強い芸術作品の例。マグリットの「バルコニー」(右)はマネの絵(左)に新しい解釈を与えている


逆に言うと、「芸」なき芸術が批評と思われているのではないでしょうか。批評は結論だけを述べて、具体的なその形を提示しないというわけです。

しかも、芸術が現代芸術や現代音楽、ポストモダン文学などなど様々に発展していったのに比して、批評的文章は長い時代を経て大きく形態が変わっているわけではありません。批評対象が独創的でユニークな作品を生み出す中、批評は現代においても格調の高い文章を目指しているように見えます。(ただし昨今は様々なライターの努力によって、こういった敷居の高さは打破されつつあります。)

そもそも批評には"前衛表現"というものはあまりありません。たまに外連味のある批評文が登場しますが作品や作家を貶めるようなものであったり、良いものであっても理論化されることはほとんどなかったりします。そのため基本的に批評は至極一般的な文章形態で書かれます。
もしかすると、作品を貶めたり価値を捻じ曲げたりした「ユニーク」を標榜した自称批評のせいで、作品を尊重するまともな批評家たちはそのような行為から遠ざかったのかもしれません。そういった批評家たちは現代哲学など最新の思想に立脚した論を展開することで前衛性を担保しようとしていますが、しかしこれも前衛として見ると本質的ではないように思われます。

こういった点が「批評には芸がない」「妙に衒学的」という印象に繋がり、多くの人から反感を買ったのではないでしょうか。


※ここで注意してもらいたいのですが、素晴らしい批評は往々にして芸術作品以上に新しい視点を提示してくれています。その点において、批評にも「芸がある」ものが数多くあることは覚えておかなければなりません。そもそも、芸術や思想に造詣の深い第三者の視点を提供すること自体に価値があります。


批評を芸術へ

ではこの問題にどう対処するか。単純な発想ですが、私は現代芸術が批評を取り込んだなら、批評も現代芸術を取り込めば良いと考えます。

ここで私は芸術的批評として「クリティシスム芸術(クリティシスム)」を提唱します。(クリティシムではありません。芸術的な色彩があるため、キュビムやシュルレアリムのように、フランス語風にクリティシムと敢えて表記します。)
批評でしかありえない文章や表現でありながら、前衛芸術・現代芸術由来の独創性や前衛性、そしてユーモアがあるものがクリティシスム芸術です。

こう書いても分かりにくいことでしょうから、過去の名批評からクリティシスムと言えそうな作品を例示しましょう。

私が知る限り最も古いクリティシスム作品は「印象派の展覧会」です。

印象派の名の由来になった批評です。内容はというと、筆者が架空の絵画の巨匠と一緒に印象派の展覧会をめぐる、というもの。通常の批評文の中で架空の事物を打ち立てた例は(現在まで)ほとんどありません。よく「印象派を揶揄した」と言われる文章ですが、実際には真逆。前衛芸術に無理解な巨匠を面白おかしく描いています。芸術的な視点としても、具体物ではなく印象を書いていると論じたこの文章はその名の由来になった通り、印象派の本質を突くものです。


著名なクリティシスム作品としてもう一つ、田中宗一郎氏によるRadiohead "Kid A"のレビューを挙げたいと思います。

見て分かる通り、ほとんど「助けて」のみからなるものです。ここまでストイックな批評はまずお目にかかれません。至極単純な構成ながら、これを読んだ人は皆Kid Aを聴くたびに叫びを感じてしまう、インパクトある批評です。このアルバムに漂う一種の色気を「お助平」と一つ入れて表現するユーモアセンスも忘れていません。


批評文以外のクリティシスム作品

芸術批評以外でクリティシスムといえる作品としては、架空の事物を扱うSF小説が挙げられるでしょう。「完全な真空」は小説という行為に対して、「見えない都市」「方形の円」は都市計画に対してのある種の批評文と言えます。


またパロディ小説も一種のクリティシスムです。ボルヘスの名作「ドン・キホーテの著者ピエール・メナール」は非常にハイレベルなドン・キホーテへの(そして創作そのものへの)クリティシスムです。
あまり著名ではありませんが、一條次郎の短編小説「ヘルメット・オブ・アイアン」も杜子春に対する素晴らしいクリティシスム的作品としてあげたいと思います。杜子春に対する新しい視点を得られ、かつユーモア溢れる優れた作品です。



非芸術を芸術に変えるクリティシスム

また小説だけではなく、非芸術を無理やり芸術に仕立て上げる行為もクリティシスム作品といえるでしょう。レディメイドの一種とも考えられますが、すでにある事物に批評を付けて作品化させる試みです。

この手法は既に批評でも一般的に見られる手法です。アウトサイダーアートへの批評、あるいは酷いものを敢えて収集・批評すると学会やKOTYもその一つでしょう。現在広く認められている、数少ないクリティシスム的表現といえるかもしれません。

この試みをさらに先鋭化させたのが、赤瀬川原平の「超芸術トマソン」をはじめとした路上観察によるクリティシスムです。アウトサイダーアートのようにあくまでも「芸術」の意図をもった作品に限られていた批評を、彼はそもそも芸術の俎上にさえ上がらない日常も芸術として真剣に批評するところまで拡張しました。これによって赤瀬川原平は世界中のすべてを批評可能なアートにしてしまったのでした。



クリティシスムとしてのお笑い

お笑いには芳醇なクリティシスム作品が沢山あります。

友田オレの「私の彼は左きき」を題材にしたこのネタは、もともとの楽曲に内在されている「彼」の様々な可能性を提示した作品です。あらゆる「左利きの彼」を肯定するクリティシスム作品であり、慈愛に満ちた批評と言えるでしょう。 


ラーメンズの「新噺」はそれそのものが落語でありながら、落語という行為そのものへの批評と捉えられます。我々が無意識で理解しているルールを脱構築し、より深く落語を理解できるようになる作品です。

ただ、あくまで批評から出発しているクリティシスムとして、こういった演劇やコント作品は芸術に寄りすぎているのでは?という意見もあることでしょう。純粋な芸術性ならぬ「純粋な批評性」がないと言えるかもしれません。

この問題を解決するための方策は、デイリーポータルやオモコロのライター達が切り開いた「ネット記事」の方法論だと私は思います。


ネット記事のクリティシスム

いわゆる面白ネット記事は、多分に不条理演劇的性質が含まれています。どこまでも続く人生の中で、多大な労力を払って無意味な行動をし、結果的に何も得ない(時には自分だけ損をする)。そういった不毛な行いの記録が、ネット記事では描かれています。

ネット記事が不条理演劇の性質を帯びるようになったのには、なにか一つの大きな理由があるわけではないと思います。スネークマンショーやラーメンズなどの不条理劇的作風の芸人がフラッシュ動画を通してネット文化に多大な影響を及ぼしたこと、デイリーポータルZやオモコロの近くに演劇団体がいたこと(ヨーロッパ企画、明日のアー)、影響力のある書き手が演劇に関連する人物だったこと(べつやくれい、ダヴィンチ恐山)など、様々な要因によるものでしょう。
さらにブログそのものの大きな文化であるレビューや批評の流れも汲んだ結果、ネット記事には批評と芸術の合いの子、すなわちクリティシスムといえる作品が大量に存在することとなりました。

そして、デイリーポータルは芸術の俎上に当たらないものにスポットライトを当てるクリティシスムを、オモコロは既存の作品をユニークな視点で捉えなおすクリティシスムをそれぞれ純化させています。


デイリーポータル的クリティシスムは赤瀬川イズムを継承したものです。道端に転がっている不思議なものや、日常の些細な出来事を新しくとらえなおし、我々に新しい視点を与えてくれます。


オモコロ的クリティシスムは元となる「作品」を重視した従来型の批評に近いものです。アニメや漫画、芸能などといった既存作品の「あるある」を前衛的な手法を使って別角度で捉えなおします。パロディ小説やSF小説に近い型を持っていると言えるかもしれません。


彼らの活動に共通するのは、道端で演劇をやっているかのような、平凡な日常を芸術的・前衛的手段をもって捉えなおすことで少し面白おかしくしているということでしょう。このことはフルクサスやネオダダのハプニングを想起させます。日常を異化させることで、取り上げた行為や作品そのものに我々が新しい気づきを得ることができるというわけです。ハプニングを文章表現に落とし込んだのが、ネット記事と言えるのかもしれません。



批評を芸術にしようとした過去の試み・多義的な批評

素人の思いつくことは大体先人が通った道です。やはり過去にも芸術的批評を考えた人はいたようです。例えば、イタリアの批評家ロベルト・ロンギは芸術作品を正確かつ多角的に捉えるために詩人や散文家を大きく参考にしたようです。(完全に余談ですが、批評家の"論議"ってできすぎな名前ですね)

上の記事を読む限り彼の考えは美術史との差別化の意味合いが強かったようですが、彼が目指した「多義的な批評」はクリティシスムの目指す場所でもあります。

批評の題材となる芸術作品は、人によって見え方が変わることでしょう。冒頭で「現代の芸術には批評が内在している」と述べましたが、往々にして作者が意図していないメッセージ性も汲み取ることができます。
これは正方形の三次元的拡張と定義される立方体の断面図には、正方形以外にも三角形や六角形など様々あるのに少し似ています。同じ作品でも見方によって様々な形に変容する可能性があるというわけですね。

立方体の断面も切り方によって色々ある

場合によっては作者さえも気づかない切り口たちをできるだけ多く提示するのが批評の目標でしょう。それによって対象となった作品の思わぬ面に気づかせ、価値を変えるというわけです。

その切り口を多く提示するには、ロンギが詩や散文の方法論を参考にしたように、芸術的・先鋭的な手法が必要になるのではないでしょうか。批評そのものが多面的な解釈ができるようになることによって、対象作品の解釈の数を少なくともmin{(批評の解釈数)} 倍だけ増やすことができます。


クリティシスムとは

ではクリティシスムとは何なのかを再確認して終わりましょう。

多義的な解釈を与えるため、そして批評をより面白く、豊かにするための一つの考えがクリティシスムです。現代芸術的・前衛芸術的な手法によって新しい視点を与えた批評形式、批評だからこそできるユニークな文芸と言っても良いかもしれません。

私が思うに、この四つが条件であるように思います。

クリティシスム芸術の条件
1. 文章や話芸、それに準じる形態であること
2. 既存の芸術・作品またはそれに類するものに対して何かしらの新視点を提供していること
3. 類例がない(もしくは少ない)前衛的な作風や題材であること
4. ちょっとしたユーモアがあると、なおよい

ただし、この条件は私の主観であることに注意してください。多くの人の手でクリティシスムの理論が発展されることを願います。



謝辞
~スムとして独自の芸術を標榜する方法は、いととと氏をはじめとした現代4コマ関連の方々の創作芸術を参考にしたものです。それらのお陰でこの概念にたどり着きました。
また新しい試みを「宣言」でまとめるのは(シュルレアリスム宣言はもちろんですが)小学校の頃に愛読していた日本ピクトさん学会の「ピクティスト宣言」によります。
大変ありがとうございました。


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