赤いドレスをトランクケースに詰め込んで
『これ、欲しい。』
デパートの4階、海外ブランドが立ち並ぶフロアで
私は赤いドレスを試着していた。
社会人3年目の私が買うには贅沢すぎる金額のドレスだっただろう。
値札を見ることも忘れて
絶妙なドレープラインが美しい
赤いノースリーブのドレスに
心を奪われていた。
『こちらはシワになりにくい生地ですので、
海外に行かれる時でも
トランクケースに詰めて持って行けますので
便利ですよ。』
髪をきれいに纏め上げ
黒いスーツに黒いパンプス
ピリッとした身なりの落ち着いた女性店員が
いかにも慣れた口調で説明をしてくれた。
赤いドレスをトランクケースに詰め込んで
海外へ飛び立つような暮らしって
どんなものだろうか。
頭の片隅にある想像力を搔き集めても
具体的なイメージが湧かない生活に
『そうなんですね。』と愛想笑いをしながら
それでも素敵な赤いドレスから目が離せなかった。
『買ってあげようか。結婚指輪も込みになるけど。』
あまりにも私がドレスを気に入っていることに
気づいたのだろう。
試着室の外で待っていた彼が提案してくれたのだ。
『え。』
一瞬にして現実に引き戻された気がした私は
『結婚指輪は良いのが欲しいから。ドレスは要らないよ。』
せっかくの彼の提案を
私はあっさりと取り下げた。
戸惑いもせず心からの純粋な気持ちで
潔く非日常を差し出してくれた彼に対して
ごりごりに固まって
叩いても割れない冷たい氷のような日常を突き返したのだと
今なら分かる。
結婚指輪をもらうなら給料2か月分、
いや3か月分くらいの値段のが良い。
ずっと残るものだから当たり前じゃない、と。
彼は少し残念そうな顔をしたけれど
何も言わなかった。
その足で宝飾品売り場のある7階へ行き、
結婚指輪を買ってくれた。
四角い箱にかしこまって鎮座する
正統派な輝きを放つダイヤモンドの指輪だ。
あの時、私が非日常を受け取っていたら
受け取れる私であったなら、とふと思う。
結婚指輪はこうあるべき、
ドレスを持って海外へ行く人はこんな人。
たくさんの固定観念や日常に支配されていた私。
彼の突拍子もないけれど素晴らしい提案を
心良く受けとることができなかった私を
今になって残念に思う。
良いじゃない。
結婚指輪の代わりが赤いドレスでも。
誰に遠慮していたの。
誰の評価を気にしていたの。
『こうあるべき』を取り払うと
相手の中にある本当の優しさに気づくことが
出来るかもしれない。
ごりごりと何かにぶつかって前に進めないとき、
私の胸のなかに浮かぶのはあの赤いドレス。
『やさしさを上手く受け取れているだろうか。』
赤いドレスは誰かのトランクケースに詰められて
きっと見知らぬ世界を旅をしている。