最終時代の歩き方
はじめに
いよいよ、世界がおかしくなり始めています。今後、私たちはどのように歩けばいいのでしょうか。
注意してください。
今後、この聖句を悪用して、政府に逆らってはいけない、また、牧師、神父、教皇に逆らってはいけないなどの横暴が行われることが予想されます。
「パウロの手紙を曲解すると滅びる」という聖書の言葉を忘れてはいけません(第二ペテロ3:16)。この聖句は、悪を罰し、善を行わせる権威に対して、従いなさいと勧告しているのです。
文脈を無視してこの聖句を乱用するなら、大変なことになります。当然、サタンはこれを利用するでしょう。政治と宗教、両方の面で悪用してくるでしょう。
権威の上におられる方
権威には序列があります。部長と社長の意見が違っていたら、どちらに従うべきでしょう。大臣と王様の意見が違っていたら、どちらに従うべきでしょう。
当然、より上にある権威に従うべきです。
キリストはすべての権威の頭です。ゆえに、世の権威がキリストの教えと違うなら、頭であるキリストに従わねばなりません。
中間に君臨する権威
ところが現在、人と神とのあいだに、ひそかに君臨している者がいます。
この世の君とは、誰のことでしょうか。
もちろん、サタンです。サタンは、この世の君として、私たちの上に君臨しているのです。
たとえるなら、善良な王の下にいる、悪い大臣のようなものです。この悪い大臣に、私たちは従って、歩いていたのです。
この歩みを具体的に言うと、何を着ようか、何を食べようかという歩みです。肉の欲、目の欲、財産の誇りに従った歩みです。
世の中では当たり前で、特段、罪とされるようなことではありません。
ところが聖書は、そのような歩みは御旨に反することだと教えます。
御旨に関する教え
これらのものが御旨に反することを、心に刻まなければなりません。クリスチャンが全員、天国に入れるわけではないのです。
耳障りのよい話しか聞いてこなかった人には寝耳に水かもしれませんが、イエス様ははっきりとこのことを警告しておられるのです。
「そんなはずはない」と思わないでください。イエス様と牧師の教えが違っていたら、どちらを信じるべきですか? より上にある権威に従うべきです。
御旨を行う者だけが入るのです。
ゆえに、私たちはこの世と妥協せず、神の御旨を熱心にわきまえ知るべきなのです。
誰の支配に入るか
私たちは、悪い大臣を追い出して、善い王に直接仕えることができます。
誰の支配に入るか。これこそが、私たちの戦いなのです。
もう、闇の世の主権者に従う必要はありません。死を恐れる動物のように歩む必要はないのです。
私たちは、復活の希望に与り、永遠の命を得て、永遠に至るもののために働くことができます。
そして覚えてください。これこそが、御子が私たちに与えるものだと教えられているのです。
この贈り物を、あなたは受け取っていたでしょうか。
最後の時代
聖書を読めば分かるように、私たちは最後の時代に生きています。まもなく主が来られ、すべての権威を滅ぼしてしまうでしょう。
しかし、イスラエルの民をエジプトから連れ出したときのように、もう一度、悪しき者に大きな権威が与えられることが預言されています。
これを新世界秩序(New World Order)と位置づける人も多いですが、断定しないほうがよいと思います。
というのも、サタンはあらゆるフェイクを使って私たちを騙してくるからです。世界を十区分に分けて、人々を完全に支配する、そのような情報を故意に流し、私たちを混乱させていることも考えられます。
とはいえ、新世界秩序に対する警告を信じるな、というのではありません。それらが起こる可能性も十分にあると思います。
けれども、断定するなら、そうでなかった場合に完全に欺かれることになってしまいます。
そうでなかった場合
私たちが未来を断定し、あまりに熱心に語るなら、どうなってしまうかを想像してみましょう。もしもそれらが、サタンの故意に流した偽情報だったらどうなるでしょう。
「違ってたじゃないか!」そう言って、人々は躓いてしまいます。そうなれば、私たちの語った真理まで、全部間違いだったのではないかと疑うようになるでしょう。
もはやサタンにとって、新世界秩序など実現しないほうが喜ばしい状況になってはいないでしょうか。
考えてもみてください、狡猾なサタンのことを。
サタンの計画は、こうも簡単に私たちの耳に漏れ聞こえてくるものでしょうか。
敵を欺くには、まず味方から。サタンは自分の配下にさえ、偽の計画書を渡しているのかもしれません。
ある人たちは、「日曜休業令」なる命令が世界統一政府から出ることを予想し、そのときこそ日曜礼拝をやめるときだと考えています。
そうかもしれません。可能性は大いにあります。
けれども、それがサタンの撒いた偽の計画書だった場合に、足下が揺らぐようではいけません。
日曜休業令などなくとも、聖徒を滅ぼせる
ローマカトリックが採用した日曜礼拝を考えてみてください。
これは、ローマ帝国時代に多数派だったミトラ教徒とキリスト教徒をうまく支配するために、ユダヤ教徒を迫害させ、併合するために考え出された政策です。なぜ日曜日かといえば、ミトラ教の太陽神を礼拝する日が、日曜日だったからです。
聖書のどこにも、日曜礼拝を守るように書かれている箇所はありません。そしてこのために、十戒の安息日(金曜の日没から土曜の日没までを聖とせよという命令)が無視されているのです。
十戒は、私たちが神の民となるために、絶対に手放してはいけない教えです。
私たちが神の宮となるためには、十戒が納められ、神の霊が住まわれる必要があります。
これをしてくださるのが、新しい契約、すなわち新約です。
十戒に同意しなくては、この契約は受けられません。私たちが十戒の一つでも拒絶するなら、この契約には入れないのです。
つまり、新世界秩序や日曜休業令などなくとも、すでに聖徒は支配され、新約から遠ざけられているのです。
狡猾なサタンとしては、これに気づかせないために、どうするのがベストでしょう。
偽の情報をばら撒くことです。今後、このようなことが起こるぞと匂わせ、それが起こるまで、私たちを眠らせておくことです。
日曜休業令を待っているあいだに主が来てしまうなら、十戒に一つでも同意していなかった人は、泣いて歯ぎしりすることになるでしょう。
可能性の一つとして、考えてみてください。敵が暴露した情報が、こうも次々と入ってくる理由は、これではないでしょうか。
おわりに
十戒の安息日に同意していないのに、自分は救われたと思っている方々、どうかよく考えてみてください。
あなたは十戒の納められていない、空っぽの宮ではありませんか?
また、安息日を守っていることで、自分は救われると思っている方々。
あなたは、人が義とされるのは、律法の行いによるのではないと書いてあるのを忘れてはいませんか?
私たちのすべきことは、支配者を正しく選ぶことです。これが口先だけなら、滅びてしまうでしょう。
実質としてキリストを王とし、その方に仕える者となっていた人、忠実だった人を、主は迎えに来られるのです。信じた人とは、そのような人のことだからです。
まずは、すべての権威の頭であるキリストに従いましょう。どんなに牧師や神父が日曜礼拝の正しさを訴えても、あなたが聖書から安息日の正しさを見つけたなら、主に従わなければなりません。
また、自分だけが助かればいいというのでは、王に仕えていたことにはなりません。
思い出してください。父の御旨を行う者だけが入るのです。
何をおいても、聖書の教えに忠実になりましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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