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批判ばかりで愛のない私
はじめに
私は教会の批判ばかりして、愛がまったくありません。
そのことを非難されるなら、私はぐうの音も出ないでしょう。
実際にそのとおりだからです。
なぜこんなことを続けるのでしょうか。
教会に恨みでもあるのでしょうか。
それとも、サタンを手伝っているのでしょうか。
その理由を、今日、正直にお伝えしたいと思います。
批判ばかりで愛のない人たち
聖書にも、批判ばかりで愛のない人たちが出てきます。
マタイの福音書
3:7 彼は、ファリサイ派とサドカイ派の者たちの多くが彼の〔施す〕洗礼にやって来るのを見て、彼らに言った、「まむしの裔(すえ)め、やがて来たるべき怒りから逃れるようにと、誰がお前たちに入れ知恵したのか。
3:8 ならば回心にふさわしい実を結べ。
3:9 そして、『俺たちの父祖はアブラハムだ』などと心の中でうそぶこうとするな。なぜなら、私はお前たちに言う、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起こすことができるのだ。
3:10 すでに斧が木々の根元に置かれている。だから、良い実を結ばぬ木はことごとく切り倒され、火の中に投げ込まれるのだ。
バプテスマのヨハネです。
この男は、きつい言葉を使って、主流派の人々を批判してばかりいました。
その後、もっとひどい男が出てきます。
マタイの福音書
23:13 さて、禍いだ、お前たち律法学者とファリサイ人よ、偽善者どもよ。お前たちは、人々の前で天の王国〔の扉〕を〔鍵で〕閉じてしまうのだ。なんと、お前たちは自ら入ることをせず、入ろうとする者たちをも入らせないのだ。
23:15 禍いだ、お前たち律法学者とファリサイ人よ、偽善者どもよ。お前たちは海と大陸を駆けめぐって、一人〔でも〕改宗者を作ろうとする。そしてうまく行った時は、彼をお前たちに倍するほどのゲヘナの子にしてしまうのだ。
23:16 禍いだ、お前たち盲目の道案内人どもよ。お前たちは言う、『神殿にかけて誓う者〔がいるとすれば〕、それはなにごとでもない。しかし神殿の黄金にかけて誓う者は、〔その誓いを〕果たす義務がある』。
23:17 愚か者どもよ、また盲目な者どもよ。黄金とそれを聖化する神殿とでは、いったいどちらが〔より〕大いなるものか。
23:18 また、〔お前たちは言う、〕『祭壇にかけて誓う者〔がいるとすれば〕、それはなにごとでもない。しかしその上にある献げ物にかけて誓う者は、〔その誓いを〕果たす義務がある』。
23:19 盲目な者どもよ。献げ物と献げ物を聖化する祭壇とでは、いったいどちらが〔より〕大いなるものか。
23:20 すなわち、祭壇にかけて誓う者は、それにかけて誓うと同時に、その上のすべての物にかけて誓うのだ。
23:21 また、神殿にかけて誓うものは、それにかけて誓うと同時に、そこに住みたもう者にかけて誓うのだ。
23:22 また天にかけて誓う者は、神の御座とその上に座したもう者にかけて誓うのだ。
23:23 禍いだ、お前たち律法学者とファリサイ人よ、偽善者どもよ。お前たちは薄荷と、いのんどと、茴香(ういきょう)との十分の一税を払っていながら、律法の最も重要なものをなおざりにしている。〔すなわち、〕さばきと憐れみと信頼である。[もっとも、]前者も行なわねばならないが、後者もなおざりにしてはならない。
23:24 盲目の道案内人どもよ、ぶよを濾(こ)すが、らくだは丸呑みにする者どもよ。
23:25 禍いだ、お前たち律法学者とファリサイ人よ、偽善者どもよ。お前たちは杯と皿の外側を清める〔だけで〕、内側は略奪〔行為〕と放縦さに満ちている。
23:26 盲目のファリサイ人よ。杯の外も清くなるためには、お前はまずその内を清めよ。
23:27 禍いだ、お前たち律法学者とファリサイ人よ、偽善者どもよ。お前たちは石灰で〔白く〕塗られた墓そっくりだ。外側は美しいが、内側は死者の骨とあらゆる不浄に満ちている。
23:28 このようにお前たちも、外側では人々に義人らしく見えてはいるが、内側は偽善と不法で満杯だ。
23:29 禍いだ、お前たち律法学者とファリサイ人よ、偽善者どもよ。お前たちは預言者たちの墓を建て、義人たちの墓所を飾りたて、
23:30 そして言う、『もしわれわれが父祖たちの時代にいたならば、預言者たちの血について、父祖たちの共犯者にはならなかったであろうに』。
23:31 〔まさに〕こうしてお前たちは、自分が預言者殺しの下手人の子であることを、自らに対して証ししているのだ。
23:32 そのようにしてお前たちは、自分の父祖たちの〔悪業の〕升目を満たすがよい。
23:33 蛇よ、まむしの裔(すえ)よ、お前たちはゲヘナのさばきからどのようにして逃げようというのか。
このイエスという男は、先ほどのヨハネに輪をかけたような批判を、これでもかと語っています。
もうおわかりですね。
逆説的に言いましたが、これが愛なのです。
ヨハネの黙示録
3:19 すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。
いつ、この愛に気づきますか?
残念ながら、パリサイ派やサドカイ派の人々は聞き入れませんでした。
彼らは裁きのとき、初めてヨハネやイエスの言動が愛であったことに気づくでしょう。むしろ、なぜもっと強い口調で語ってくれなかったのかと、泣き叫ぶことになるでしょう。
けれど、そのときではもう遅いのです。
マタイの福音書
13:41 人の子はその使たちをつかわし、つまずきとなるものと不法を行う者とを、ことごとく御国からとり集めて、
13:42 炉の火に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
マタイの福音書
13:49 世の終りにも、そのとおりになるであろう。すなわち、御使たちがきて、義人のうちから悪人をえり分け、
13:50 そして炉の火に投げこむであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
聖書は「信じるだけ」とは教えていません。
義を行うか、罪を行うかによって、神の子か悪魔の子かの区別がなされるのです(Iヨハネ3:10)。
内側が偽善と不法でいっぱいなら、炉の火に投げ込まれて、そこで泣いて歯ぎしりすることになるのです。
あなたは愛されています
エゼキエル書
33:11 あなたは彼らに言え、主なる神は言われる、わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか。
あなたは愛されています。
死んではいけません。
滅びの道を歩み続けてはいけません。
神様は、あなたが救われて、真理に立つことを願っておられます。
テモテへの手紙 第一
2:4 神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。
全知全能の神が、なぜこのことを願わなければならないのでしょうか。
なぜなら、このことは、あなたの決断に任されているからです。
残念ながら、正しい決断をする人はほとんどいないのだと聖書は教えます。
マタイの福音書
7:13 狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。
7:14 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。
あなたがこのブログに出会ったことは、偶然ではありません。
主は、あなたが滅びにいたる大きな門から抜け出せるように、取るに足らない者を使って、必死に呼びかけているのです。
批判にしか聞こえないことはわかります。愛のない言葉にしか聞こえないことはわかります。
それでも、主は必死に呼びかけているのです。
本当の兄弟姉妹へ
ヨハネの黙示録
3:1 サルデスにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『神の七つの霊と七つの星とを持つかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる。
3:2 目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたのわざが、わたしの神のみまえに完全であるとは見ていない。
この言葉がきっかけとなって、私は仕事を辞め、今の働きに着きました。現在も、たったひとり、この働きを続けています。
安息日をお勧めしているので、セブンスデーアドベンチストだ、ユダヤ教徒だ、と言われますが、そうではありません。
日曜礼拝をやめて以来、私はどの団体にも所属せず、ただキリストの弟子として働いています。
同じような方が、どこかにおられるかもしれません。
もしおられたなら、どうか負けないでください。
誰にも理解されず、たったひとりになったとしても、主がともにおられます。
また、同じような働きの必要を感じた方もおられるかもしれません。
もしおられたなら、どうか勇気を出してください。
あなたの新しい歩みを、主は喜んで支えてくださいます。
罵られたから、なんだというのでしょう。
誤解されたから、なんだというのでしょう。
たとえ殺されるとしても、金銭が尽きて飢えるとしても、それが何だというのでしょう。
私たちは天に国籍を持つのです。この地上では寄留者として一時的に滞在しているに過ぎません。主と福音のために働かないなら、地上にいる意味が一体どこにあるでしょうか。
永遠の命を受けたというのは名ばかりで、じつは死んでいる人々が大勢います。
穴に落ちそうな人を見たら、誰だって助けてあげるでしょう。
それなら、地獄に落ちそうな人を見て、助けてあげない人がいるでしょうか。
おわりに
私は批判ばかりで、愛のない者に見えると思います。
けれど、どうしてそんなことをするのか、少しでもわかっていただけたでしょうか。
多くの人が「聞いてきた教えと違う」というだけの理由で、耳を傾けてくれません。
わかります。私もそうだったからです。
けれど、よく考えてみてください。
「聞いてきた教えと違う」という理由ではねつけてしまうなら、どうやって間違いから抜け出せるでしょう。
「主流派の教えと違う」という理由ではねつけてしまうなら、どうやって狭い門から入ることができるでしょう。
「そういう解釈もあるのか」という程度で構いません。
少し、耳を傾けてみませんか?
このブログを信じる必要はありません。
紹介された聖句だけでも読んでみてください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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