はじめに
私は教会の批判ばかりして、愛がまったくありません。
そのことを非難されるなら、私はぐうの音も出ないでしょう。
実際にそのとおりだからです。
なぜこんなことを続けるのでしょうか。
教会に恨みでもあるのでしょうか。
それとも、サタンを手伝っているのでしょうか。
その理由を、今日、正直にお伝えしたいと思います。
批判ばかりで愛のない人たち
聖書にも、批判ばかりで愛のない人たちが出てきます。
バプテスマのヨハネです。
この男は、きつい言葉を使って、主流派の人々を批判してばかりいました。
その後、もっとひどい男が出てきます。
このイエスという男は、先ほどのヨハネに輪をかけたような批判を、これでもかと語っています。
もうおわかりですね。
逆説的に言いましたが、これが愛なのです。
いつ、この愛に気づきますか?
残念ながら、パリサイ派やサドカイ派の人々は聞き入れませんでした。
彼らは裁きのとき、初めてヨハネやイエスの言動が愛であったことに気づくでしょう。むしろ、なぜもっと強い口調で語ってくれなかったのかと、泣き叫ぶことになるでしょう。
けれど、そのときではもう遅いのです。
聖書は「信じるだけ」とは教えていません。
義を行うか、罪を行うかによって、神の子か悪魔の子かの区別がなされるのです(Iヨハネ3:10)。
内側が偽善と不法でいっぱいなら、炉の火に投げ込まれて、そこで泣いて歯ぎしりすることになるのです。
あなたは愛されています
あなたは愛されています。
死んではいけません。
滅びの道を歩み続けてはいけません。
神様は、あなたが救われて、真理に立つことを願っておられます。
全知全能の神が、なぜこのことを願わなければならないのでしょうか。
なぜなら、このことは、あなたの決断に任されているからです。
残念ながら、正しい決断をする人はほとんどいないのだと聖書は教えます。
あなたがこのブログに出会ったことは、偶然ではありません。
主は、あなたが滅びにいたる大きな門から抜け出せるように、取るに足らない者を使って、必死に呼びかけているのです。
批判にしか聞こえないことはわかります。愛のない言葉にしか聞こえないことはわかります。
それでも、主は必死に呼びかけているのです。
本当の兄弟姉妹へ
この言葉がきっかけとなって、私は仕事を辞め、今の働きに着きました。現在も、たったひとり、この働きを続けています。
安息日をお勧めしているので、セブンスデーアドベンチストだ、ユダヤ教徒だ、と言われますが、そうではありません。
日曜礼拝をやめて以来、私はどの団体にも所属せず、ただキリストの弟子として働いています。
同じような方が、どこかにおられるかもしれません。
もしおられたなら、どうか負けないでください。
誰にも理解されず、たったひとりになったとしても、主がともにおられます。
また、同じような働きの必要を感じた方もおられるかもしれません。
もしおられたなら、どうか勇気を出してください。
あなたの新しい歩みを、主は喜んで支えてくださいます。
罵られたから、なんだというのでしょう。
誤解されたから、なんだというのでしょう。
たとえ殺されるとしても、金銭が尽きて飢えるとしても、それが何だというのでしょう。
私たちは天に国籍を持つのです。この地上では寄留者として一時的に滞在しているに過ぎません。主と福音のために働かないなら、地上にいる意味が一体どこにあるでしょうか。
永遠の命を受けたというのは名ばかりで、じつは死んでいる人々が大勢います。
穴に落ちそうな人を見たら、誰だって助けてあげるでしょう。
それなら、地獄に落ちそうな人を見て、助けてあげない人がいるでしょうか。
おわりに
私は批判ばかりで、愛のない者に見えると思います。
けれど、どうしてそんなことをするのか、少しでもわかっていただけたでしょうか。
多くの人が「聞いてきた教えと違う」というだけの理由で、耳を傾けてくれません。
わかります。私もそうだったからです。
けれど、よく考えてみてください。
「聞いてきた教えと違う」という理由ではねつけてしまうなら、どうやって間違いから抜け出せるでしょう。
「主流派の教えと違う」という理由ではねつけてしまうなら、どうやって狭い門から入ることができるでしょう。
「そういう解釈もあるのか」という程度で構いません。
少し、耳を傾けてみませんか?
このブログを信じる必要はありません。
紹介された聖句だけでも読んでみてください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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