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バビロン、ソドム、エジプトの意味

はじめに

黙示録には、バビロン、ソドム、エジプトという町の名が出てきます。

これが何を意味するのかを、私たちは確実に悟らなければなりません。

とても重要なことですから、ご一緒に確認していきましょう。

大いなる都バビロン

ヨハネの黙示録
17:5 その額には、一つの名がしるされていた。それは奥義であって、「大いなるバビロン、淫婦どもと地の憎むべきものらとの母」というのであった。

黙示録は、背教した教会を「淫婦」「大いなる都」「バビロン」と呼び、
残りの教会を「聖徒」「聖なる都」「エルサレム」と呼びます。

ヨハネの黙示録
21:2 また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。

言うまでもありませんが、私たちは聖なる都エルサレムに属さなければなりません。大いなる都バビロンに属するなら、激しい神の怒りを受けることになるからです。

ヨハネの黙示録
16:19 大いなる都は三つに裂かれ、諸国民の町々は倒れた。神は大いなるバビロンを思い起し、これに神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた

もともとは同じ存在だった

バビロンソドムエジプト、そしてエルサレム
これらは、もともと同じ存在であったことが示唆されています。

ヨハネの黙示録
11:8 彼らの死体はソドムや、エジプトにたとえられている大いなる都の大通りにさらされる。彼らの主も、この都で十字架につけられたのである。

しゅが十字架につけられた都といえば、エルサレムです。
その都が、あろうことか、ソドムエジプト、そして大いなる都バビロンにたとえられているのです。

これらの町の名が使われたのには、どのような理由があるのでしょうか。

バビロン、ソドム、エジプトの意味

バビロンとは、繁栄の象徴です。

ヨハネの黙示録
18:16 『ああ、わざわいだ、麻布と紫布と緋布をまとい、金や宝石や真珠で身を飾っていた大いなる都は、わざわいだ。

本来、教会とは、「誰でも私について来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って従って来なさい」という呼びかけに、応答した人たちのことです。

ところが私たちは、しゅの呼びかけに応答してもいないのに、教会を名乗ってはいないでしょうか。
そうして、「自分たちは王族であり、花嫁はなよめである」と言って、世の贅沢にふけってはいないでしょうか。

ヨハネの黙示録
18:7 彼女が自ら高ぶり、ぜいたくをほしいままにしたので、それに対して、同じほどの苦しみと悲しみとを味わわせてやれ。彼女は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。

私たちがバビロンと呼ばれるのは、このためです。

次にエジプトですが、これは偶像礼拝の象徴です。
これは貪欲のことでもあると教えられています。

コロサイ人への手紙
3:5 だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない

かつてエジプトから救い出された人々は、この罪を犯しました。

出エジプト記
16:3 イスラエルの人々は彼らに言った、「われわれはエジプトの地で、肉のなべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった。あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている」。

しゅに救い出されておきながら、彼らの心はエジプトに戻ってしまったのです。

私たちも同じです。しゅに救い出されておきながら、世のことを慕うなら、それは不貞であり、反逆だと聖書は教えます。

ヤコブの手紙
4:4 不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである

私たちがエジプトと呼ばれるのは、これが理由です。

またソドムとは、不品行の象徴です。

エレミヤ書
23:14 しかしエルサレムの預言者のうちには、恐ろしい事のあるのを見た。彼らは姦淫を行い、偽りに歩み、悪人の手を強くし、人をその悪から離れさせない。彼らはみなわたしにはソドムのようであり、その民はゴモラのようである」。

ユダの手紙
1:7 ソドム、ゴモラも、まわりの町々も、同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので、永遠の火の刑罰を受け、人々の見せしめにされている。

不品行同性愛に対し、毅然とした態度をとらず、世に同調して、悔い改めの機会を奪った罪、それがソドムと呼ばれる理由です。

三つの町の共通点

バビロン、ソドム、エジプトには、共通点があります。
大切なことですので、しっかりと覚えてください。

その共通点とは「脱出」です。
いずれの町からも、しゅは神の民を脱出させたのです。

ソドムからの脱出は、次のように書かれています。

創世記
19:17 彼らを外に連れ出した時そのひとりは言った、「のがれて、自分の命を救いなさい。うしろをふりかえって見てはならない。低地にはどこにも立ち止まってはならない。山にのがれなさい。そうしなければ、あなたは滅びます」。

これはイエス様の教えともつながっています。

マルコの福音書
13:14 荒らす憎むべきものが、立ってはならぬ所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ

またエジプトからの脱出は、次のように書かれています。

出エジプト記
3:12 神は言われた、「わたしは必ずあなたと共にいる。これが、わたしのあなたをつかわしたしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたがたはこの山で神に仕えるであろう」。

民はエジプトから脱出し、山へ逃れました

またバビロンからの脱出は、次のように書かれています。

エレミヤ書
51:6 バビロンのうちからのがれ出て、おのおのその命を救え。その罰にまきこまれて断ち滅ぼされてはならない。今は主があだを返される時だから、それに報復をされるのである。
51:7 バビロンは主の手のうちにある金の杯であって、すべての地を酔わせた。国々はその酒を飲んだので、国々は狂った

地を酔わせる酒。これはそのまま大淫婦バビロンの描写として使われています。

ヨハネの黙示録
14:8 ──「倒れた、大いなるバビロンは倒れた。その不品行に対する激しい怒りのぶどう酒を、あらゆる国民に飲ませた者」。

ここから脱出するようにと、黙示録は警告しています。

ヨハネの黙示録
18:4 わたしはまた、もうひとつの声が天から出るのを聞いた、「わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ

これこそが、黙示録の伝えたいメッセージです。
バビロンから脱出して、命を得よ
私たちがその都の中にいるからこそ、こう警告されているのです。

バビロンに捕囚された理由

神の民イスラエルは、どうしてバビロンに捕囚されたのでしょうか。

ダニエルは次のように言っています。

ダニエル書
9:4 すなわちわたしは、わが神、主に祈り、ざんげして言った、「ああ、大いなる恐るべき神、主、おのれを愛し、おのれの戒めを守る者のために契約を保ち、いつくしみを施される者よ、
9:5 われわれは罪を犯し、悪をおこない、よこしまなふるまいをなし、そむいて、あなたの戒めと、おきてを離れました

罪を犯し、背いて、神の戒めから離れたこと、それがバビロンに捕囚された理由です。

山へ逃げよ

私たちはどのようにして山へ逃げるのでしょうか。
どうやって、命を救うのでしょうか。

出エジプト記
24:12 ときに主はモーセに言われた、「山に登り、わたしの所にきて、そこにいなさい。彼らを教えるために、わたしが律法と戒めとを書きしるした石の板をあなたに授けるであろう」。

十戒じっかいを受け取ることです。
神の前にへりくだり、すべての罪を悔い改めるなら、私たちは心に律法が書きつけられ、神との契約者になれるのです。

イザヤ書
56:6 また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は──
56:7 わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる──

ここに「安息日」という言葉が出て来ることに、驚いてはいけません。

創世記
2:3 神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。

これはイスラエルの出現よりはるか前に、神によって定められたことです。

この聖別された日を、私たちはあまりにも侮ってきました。
そのことを、悔い改めるときが来たのです。
今、神の聖別を、畏れをもって取り扱わねばなりません。

「私はそうは思わない」という言葉は、神の前に何の意味もなしません。

この聖別が、創造のときから、全人類に向けて示されたことは、誰の目にも明らかです。これに逆らうことから、私たちの不従順は始まったのです。

もう、心をかたくなにせず、初めの愛を取り戻しましょう。

ヘブル人への手紙
4:4 すなわち、聖書のある箇所で、七日目のことについて、「神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた」と言われており、
4:5 またここで、「彼らをわたしの安息に、はいらせることはしない」と言われている。
4:6 そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順のゆえに、はいることをしなかったのであるから、
4:7 神は、あらためて、ある日を「きょう」として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」とダビデをとおして言われたのである。
4:8 もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。
4:9 こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである

おわりに

バビロン、ソドム、エジプト。
これらの町の名は、教会の罪を思い起こさせるために書かれたのです。

神の戒めを離れたせいで、私たちは再びバビロンに捕囚されています。
そこから脱出しなければなりません。
山へ逃げるときは、とっくに来ていたのです。

このブログをみにする必要はありません。
ただ聖書に何と書いてあるか、それだけを幼子のように読み取ってください。
そのような人だけが、狭い門から入ることができます。

人から聞いた教えや、自分勝手な思いを捨て、聖書に立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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