一致という罠
はじめに
昨今、多くの教会で「一致」が叫ばれており、それはまるで美しい響きのように歓迎されています。
けれど、私たちはこの「一致」に気をつけなければなりません。
イエス様の時代を思い出してください。
対立していたはずのパリサイ派とサドカイ派が一致して、どうなりましたか?
真理を攻撃したのです。
すべての一致が正しいわけではありません。
聖書の教える一致とは何か、慎重に確認してみましょう。
イエス様が来た理由
イエス様は何のために来られたのでしょうか。
主ご自身、次のように言っておられます。
イエス様は、分裂のために来られました。
イスラエルの家の失われた羊の所へ来て、偽りの教えに捕らわれていた霊たちに真理を宣べ伝え、彼らをより分けたのです。
真理 vs 偽りの教え
もしイエス様が「それぞれの教えを尊重しよう。皆が同じように信じる必要はないのだから」と言ったなら、一体誰が真理を悟ることができたでしょう。
そうではなく、「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない(マタイ23:13)」と言ったところに、愛があるのです。
主がこう言われたのは、すべての人が救われて、真理を悟るに至るためでした。
真理を悟るには、主流派の教えから脱出する以外になかったのです。
それなのに、人々はこの呼びかけを嘲笑い、分離に与ろうとはしませんでした。
偽りの一致
パリサイ派とサドカイ派の一致が真理を攻撃したように、教派の一致、宗教の一致は、必ず真理を攻撃するものになるでしょう。
「聖書はそれぞれが自分に合った教えを受け取るものです」
「これだけが正しいという主張は身勝手です」
こういった言葉は、まるで愛があるように聞こえるかもしれませんが、
イエス様の愛とはぜんぜん違うものです。
とはいえ、この偽りの一致は、聖書に預言されたものであり、阻むことはできません。
私たちにできるのは、そこから離れ去ることだけです。
本当の一致
聖書は、次のような一致だけを求めるように教えています。
同じ信仰、同じ知識、同じ愛の心、同じ思い。
すなわち、ただ一つの真理によって一致すること。
これこそが、聖書の教える、唯一の「一致」です。
「異なった教理を尊重し合いましょう」という教えは、一見すると人道的で、美しく思われるかもしれませんが、その実、真理を破壊する行為です。
むしろ、皆から嫌われてでも、真理を守り通す人こそ、本物だと聖書は教えます。
私たちは、真理を世に伝える、地の塩です。
誰も真理を語らなくなったとき、もはや真理は永久に失われてしまうことを覚えてください。
おわりに
今後ますます「一致がないなら、それは本物ではない」とか、
「一致を阻む者はサタンの手先だ」と言われるようになるでしょう。
ある人は、すでに兄弟からの無関心によって、実質的に殺されているかもしれません。
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
私たちはどんな相手をも、赦し、愛し、祝福できるのです。
ですから、けっして妥協せず、真理の回復に努めましょう。
すべての教えは、「それは聖書のどこに書いてあるの?」と問われ、明らかにされなければなりません。
ときには、自分のほうが間違いを認めて、考えを改める必要もあるでしょう。
そういった態度は、真理を学ぶ上で、とても大切です。
私も、これまでにたくさんの間違いを認めて、考えを改めてきました。
「様々な方法で神を崇めればいい」という偽の一致には、極力注意を払う必要があります。
なぜなら聖書は、その行為を「姦淫」と呼び、
その一致を「大淫婦バビロン」と呼んでいるからです。
本当の一致とは何か、もう一度聖書から学び直す必要があります。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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