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「字義通りの解釈」の危険性

はじめに

昨今、多くのクリスチャンが、聖書を字義通りに解釈することに執着し、それを唯一の正しい聖書解釈法だと信じています。

これについて、聖書から慎重に確認してみましょう。

聖書のイスラエルとは

聖書を字義通りに解釈する人々は、聖書のイスラエルを自分たちのこととは考えません。
彼らは、ユダヤ人異邦人を明確に区別し、ユダヤ人だけが神の民イスラエルだと認識します。

まずは、そのような区別が今もあるかどうか、聖書から確かめてみましょう。

ローマ人への手紙
10:12 ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。

聖書協会共同訳2018

このとおり、区別はあります──と言ったら、驚きますよね。
そうです。聖書は、もはやユダヤ人と異邦人の区別はないと言っているのです。
これは聖書の一貫した教えです。

コロサイ人への手紙
3:11 そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。

ガラテヤ人への手紙
3:28 もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。

これを字義通りに受け取らない理由があるでしょうか。

たとえ神学者がこれを隠そうとも、聖書の真実は変わりません。
もはやそのような区別はないのです。キリストが隔ての壁を取り除き、二つのものを一つにしたからです。

エペソ人への手紙
2:14 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、
2:15 数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、
2:16 十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。

このとおり、神の民が二つあるのではありません
それは一つだと聖書は何度も教えているのです。

神の民イスラエル

神の民は一つであり、それを聖書はイスラエルと呼んでいるのです。

それはアダムから始まりましたが、人類の堕落を見て、神は一人の人、アブラハムを選ばれました。

創世記
17:4 「わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは多くの国民の父となるであろう。
17:5 あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。わたしはあなたを多くの国民の父とするからである

これがのちに、イスラエルと呼ばれるようになるのです。
しかし、その全部がイスラエルなのではありません

ローマ人への手紙
9:6 ──なぜなら、イスラエルから出た者が全部イスラエルなのではなく
9:7 また、アブラハムの子孫だからといって、その全部が子であるのではないからである──

ガラテヤ人への手紙
3:7 だから、信仰による者こそアブラハムの子であることを、知るべきである。

このとおり、聖書の言うイスラエルとは、血縁関係のことではありません。
心に偽りがなく、真理に属する人のことを、聖書はイスラエルと呼んでいるのです。

ヨハネの福音書
1:47 イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた、「見よ、あの人こそ、ほんとうのイスラエル人である。その心には偽りがない」。

イエス・キリストに従わないイスラエルなどいません。
従わない者は、とっくに民の中から滅ぼし去られています。

使徒の働き
3:22 モーセは言った、『主なる神は、わたしをお立てになったように、あなたがたの兄弟の中から、ひとりの預言者(イエス)をお立てになるであろう。その預言者があなたがたに語ることには、ことごとく聞きしたがいなさい。
3:23 彼に聞きしたがわない者は、みな民の中から滅ぼし去られるであろう』。

マタイの福音書
21:43 それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう

これが聖書の言うイスラエルです。
キリストに従って実を結ぶ人に、この名が与えられるのです。

ガラテヤ人への手紙
3:29 もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。

この国籍は、人が与えるものではありません。神が与えるものです。

エペソ人への手紙
2:12 またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。
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2:19 そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。

この恵みを信じますか?
信じて自分をイスラエルだと認識できた人だけが、新約を受け、神の民となるのです。

ヘブル人への手紙
8:10 わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう

あなたは神の民となっていたでしょうか。

目に見えるもの

私たちは目に見えるものに弱い傾向があります。

もしも、聖書に出て来るカナンの地に「イスラエル」という名の国が建国されたらどうなるでしょう。

わかりきったことです。多くのクリスチャンが、聖書の教えを捨て、これこそ本物のイスラエルだと思うようになるでしょう。

サタンはそれを知っていたので、1948年、中東にイスラエルという名の国を建国したのです。
これにだまされてはいけません。それは私たちを惑わすためにサタンが建国した、にせのイスラエルです。

ヨハネの黙示録
3:9 見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう。

もう、場所や名前血筋や割礼に惑わされてはいけません。
重要なのは、キリストによる新生です。そのような人を、聖書は神のイスラエルと呼んでいるのです。

ガラテヤ人への手紙
6:15 割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである
6:16 この法則に従って進む人々の上に、平和とあわれみとがあるように。また、神のイスラエルの上にあるように。

聖書の正しい解釈法

聖書を正しく解釈する唯一の方法は、聖書を聖書によって解釈することです。

イザヤ書
34:16 あなたがたは主の書をつまびらかにたずねて、これを読め。これらのものは一つも欠けることなく、また一つもその連れ合いを欠くものはない。これは主の口がこれを命じ、その霊が彼らを集められたからである。

このように、聖書の言葉の一つでも、その連れ合いを欠くものはないと保証されているのです。それを見つけて読むようにしゅが命じておられるのです。

その一例を見てみましょう。

マタイの福音書
24:1 イエスが宮から出て行こうとしておられると、弟子たちは近寄ってきて、宮の建物にイエスの注意を促した。
24:2 そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたは、これらすべてのものを見ないか。よく言っておく。その石一つでもくずされずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう」。

字義通りに読む人は、これをエルサレム神殿の崩壊と結び付けるでしょう。

実際、紀元70年、エルサレムの神殿は崩壊しました。けれど、それは予行演習、またはサタンのフェイクに過ぎません。
なぜなら、しゅが言われたのは、世の終わりのことだからです。

マタイの福音書
24:3 またオリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。

世の終わりに起こる「神殿の崩壊」とは何でしょうか。

聖書が聖書を解説してくれます。

ヨハネの福音書
2:21 イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである

神殿とは、イエス・キリストの体です。
そしてキリストの体とは、教会のことでもあるのです。

エペソ人への手紙
1:23 この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。

ここから、世の終わりに起こる「神殿の崩壊」とは、「教会の崩壊」を指していると考えることができます。

このように、聖書のほかの箇所を調べ、その連れ合いとなる聖句を見つけることを、聖書自身が命じ、保証していることを覚えてください。

マルコの福音書
4:33 イエスはこのような多くの譬で、人々の聞く力にしたがって、御言を語られた。
4:34 譬によらないでは語られなかったが、自分の弟子たちには、ひそかにすべてのことを解き明かされた。

神の宮

字義通りの解釈にこだわる人々は、「神の宮」を自分たちのこととして読みません。

それで、次のような聖句を見て、未来に「第三神殿」が建設され、そこに不法の者が座すと考えるのです。

テサロニケ人への手紙 第二
2:3 だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教のことが起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。
2:4 彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する。

しかし、パウロの言う「神の宮」とは、そういうものではありません。

コリント人への手紙 第一
3:16 あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。

「神の宮」とは、私たち教会のことです。
すなわち、
教会の中に不法の者が座して、自分は神だと宣言すると書かれているのです。

もう、誰のことだかわかりますね。
そう、ローマ教皇です。誰もがピンとくるはずです。

もちろん、プロテスタントの創始者たちは、このことを叫んでいました。

プロテスタントでは、宗教改革の先駆者ジョン・ウィクリフ、宗教改革者マルティン・ルター、ジャン・カルヴァンも、ローマ教皇を反キリストだと見なした。ウェストミンスター信仰告白は、イエス・キリストを教会の頭と告白し、その地位を僭称せんしょうするローマ教皇を反キリスト、不法の人、滅びの子だと言った。

ウィキペディア「反キリスト」より

それなのに、今や誰もこのことを叫びません。牧師も神学者も、一様に口を閉ざしています。

おかしいとは思いませんか?
不思議だとは思いませんか?

それどころか、「ローマ教皇こそ不法の者だ」と教えるなら、奇抜な意見、突拍子もない話として、馬鹿にするプロテスタントさえいるのです。

このような無知は、一体どこから来たのでしょうか。
彼らは一体、何にプロテスト(抗議)しているのでしょうか。

サタンがそのように仕向けたのです。
不法の者の正体を隠すために、時間をかけて神学を汚染してきたのです。

そのせいで、もはや真理は曲げられ、第三神殿という架空の建物まで作り出される始末です。
これに目を向けることは、私たちを盲目にする危険があります。

もしもサタンが、本当に第三神殿を建ててしまったらどうなるでしょう。
そうなったら、もう誰も彼らの目を覚まさせることはできなくなるでしょう。中東イスラエルが建国されたときと同じように、多くの人が、目に見えるものに惑わされ、自分が神の宮であることを忘れてしまうでしょう。

だからこそ、今、お知らせしているのです。

どうか、この機会を逃さないでください。このことをあざ笑わないでください。慎重になって、命に至る狭い門を見いだしてください。
あなたが真理に立てますように、心からお祈りしています。

おわりに

「字義通りの解釈」がすべてではありません。
聖書は多くのたとえ、比喩、黙示で満ちています。

それなのに、「字義通りの解釈」にこだわるあまり、多くの真理がゆがめられてはいないでしょうか。

どうか、冷静になってください。
目に見えるものや、人の意見に惑わされず、聖書に何と書いてあるかを確かめてください。

思い込みを捨てて、聖書に立ち返りましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

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