隣人を愛せるようになるために
はじめに
あなたは隣人を愛しているでしょうか。
自分と意見の違う人を、つい憎んでしまうことはないでしょうか。
自分の考えと違う人と、仲良くできない人がいます。
自分の聖書解釈と異なる人に、我慢がならない人がいます。
けれど冷静に考えるなら、皆が自分と同じ意見を持っているはずもありません。
にもかかわらず、どうして私たちは、相手が自分と同じでなければ気が済まないのでしょうか。
つまるところ、私たちは認めてほしいのです。承認欲求に突き動かされているのです。
ここから解放される道はあるのでしょうか。
あります。
そのために、聖書はたくさんのことを教えてくれます。
敵を愛せよ
「はい、来た~」と思うかもしれません。
確かに、クリスチャンである私たちは、何度もこの言葉を聞いてきましたね。
しかし、実践できているでしょうか。
できていないとしたら、なぜでしょう。
それは、愛するか、憎むか、それを「自分で選択できる」と信じていないからです。
嫌なことを言われたら憎むのは当たり前、そう思ってはいないでしょうか。
当たり前ではありません。
私たちは選ぶことができます。だからこそ、主は命じられたのです。まずはそれを信じてください。
あなたは選んでいるのです。意見の違う人を「憎い」と思うのは、あなた自身が憎むことを選んだからです。
選んだつもりはないかもしれません。まるで自動的に憎しみが湧いたかのように感じるかもしれません。しかし、そうではないのです。
私たちが憎しみに囚われるのは、その誘いに乗ったからです。
もうそんなことを続ける必要はありません。
人を憎むか、それとも愛するかは、私たちの選択によるのです。
敵とみなす理由
意見の違う人を敵とみなす理由は、あなたがその人を恐れているからです。攻撃されていると思って、身構えているのです。実際、攻撃されている場合もあるかもしれません。しかし、それが何だというのでしょう。
「魂」と訳されていますが、原語では「命(プシュケー)」です。永遠の命のことを指しているのです。つまり、他者はあなたの永遠の命を奪えない、そう教えられているのです。ゆえに、まったく恐れる必要はありません。
誤解、偏見、蔑み、そういったものが、私たちの人生を台無しにしてしまうように感じられるかもしれません。
けれど、そんなものに一生振り回されるなら、それこそ私たちの人生は台無しにならないでしょうか。
他者からよく見られることは、本当にあなたの一生を捧げるほどに価値のあることですか?
それよりも、他者から解放された自由な生き方のほうが、何倍も価値があるとは思いませんか?
相手のほうが優れている
「人を自分より優れた者と考えなさい」そう聖書は教えます。
正しい人だけを優れた者と考えるのではありません。
間違った人をも、優れた人と思わなければならないのです。
一体なぜでしょうか。
彼らが、知らずにいるだけだからです。
事実、あなたが知識を得たのは、あなたが優れていたからでしょうか。
そうではありません。主があなたを憐れんで、真理に導いてくれたからです。
主は、あなたに知識を知らせる代わりに、別の人にそうしていたかもしれないのです。その場合、あなたと相手の立場は逆になっていたとは思いませんか?
だったら、何も誇ることはできません。知らずにいるあの人が、もし自分の代わりに立てられていたら、何倍も優れた働きをしていただろう、そう思わなければならないのです。
そもそも、自分が何かを知っていると思うこと自体、間違っています。
これが聖書の教える健全な考え方です。
他者は競争相手ではない
意見の違う人に憤りを感じるとき、私たちは「誰が一番偉いか」という争論を始めているのです。
他者は競争相手ではありません。
競争はあなたの心をすり減らすだけです。
相手を打ち負かしたら満足でしょうか?
そのような満足は、やがてあなたの心を悪魔の価値観に染めていくでしょう。そうしてあなたは、実を結ばない枝となるのです。
そんな自己愛、承認欲求、競争心は、今日でなくしてしまいましょう。主に刈り込んでもらいましょう。
私たちが望むなら、主は必ず私たちをきれいにしてくれます。
おわりに
もう、他者との比較に縛られ、悪魔の価値観で生きていく必要はありません。
隣人を愛せないことは、私たち自身に不幸をもたらします。
勝った、負けた、それはサタンの作り出した思想です。他者の幸福は、決してあなたの敗北ではないはずです。それは喜ばしいことであるはずです。
他人の様子が気になりますか? 嫌われることに我慢がなりませんか?
それなら、イエス様を見つめてください。イエス様ほど真理のために嫌われた人がいるでしょうか。
嫌われてもいいのです。それはあなたの価値を下げることではありません。むしろ、価値を上げることだと主は言われます。
この価値観に生きるとき、私たちの喜びは揺るぎないものとなります。
誤解されてもいいのです。
侮辱されてもいいのです。
主を見つめ、主のために生きましょう。
そうするなら、あなたの心は完全に満たされ、他者からの承認は、もはや必要なくなるでしょう。
あなたはどう生きますか。
聖書からその答えを見つけてください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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