見出し画像

隣人を愛せるようになるために

はじめに

あなたは隣人を愛しているでしょうか。
自分と意見の違う人を、つい憎んでしまうことはないでしょうか。

自分の考えと違う人と、仲良くできない人がいます。
自分の聖書解釈と異なる人に、我慢がならない人がいます。

けれど冷静に考えるなら、皆が自分と同じ意見を持っているはずもありません。
にもかかわらず、どうして私たちは、相手が自分と同じでなければ気が済まないのでしょうか。

つまるところ、私たちは認めてほしいのです。承認欲求に突き動かされているのです。
ここから解放される道はあるのでしょうか。

あります。
そのために、聖書はたくさんのことを教えてくれます。

敵を愛せよ

マタイの福音書
5:44 しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ

「はい、来た~」と思うかもしれません。
確かに、クリスチャンである私たちは、何度もこの言葉を聞いてきましたね。

しかし、実践できているでしょうか
できていないとしたら、なぜでしょう。

それは、愛するか、憎むか、それを「自分で選択できる」と信じていないからです。

嫌なことを言われたら憎むのは当たり前、そう思ってはいないでしょうか。

当たり前ではありません。
私たちは選ぶことができます。だからこそ、しゅは命じられたのです。まずはそれを信じてください。

あなたは選んでいるのです。意見の違う人を「憎い」と思うのは、あなた自身が憎むことを選んだからです。
選んだつもりはないかもしれません。まるで自動的に憎しみが湧いたかのように感じるかもしれません。しかし、そうではないのです。

ヤコブの手紙
1:13 だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。
1:14 人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである

私たちが憎しみに囚われるのは、その誘いに乗ったからです。

もうそんなことを続ける必要はありません。
人を憎むか、それとも愛するかは、私たちの選択によるのです。

ヨハネの手紙 第一
2:10 兄弟を愛する者は、光におるのであって、つまずくことはない。
2:11 兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩くのであって、自分ではどこへ行くのかわからない。やみが彼の目を見えなくしたからである。

敵とみなす理由

意見の違う人を敵とみなす理由は、あなたがその人を恐れているからです。攻撃されていると思って、身構えているのです。実際、攻撃されている場合もあるかもしれません。しかし、それが何だというのでしょう。

マタイの福音書
10:28 また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。

「魂」と訳されていますが、原語では「命(プシュケー)」です。永遠の命のことを指しているのです。つまり、他者はあなたの永遠の命を奪えない、そう教えられているのです。ゆえに、まったく恐れる必要はありません。

誤解、偏見、蔑み、そういったものが、私たちの人生を台無しにしてしまうように感じられるかもしれません。

けれど、そんなものに一生振り回されるなら、それこそ私たちの人生は台無しにならないでしょうか。

他者からよく見られることは、本当にあなたの一生をささげるほどに価値のあることですか?

それよりも、他者から解放された自由な生き方のほうが、何倍も価値があるとは思いませんか?

他者から解放された自由な生き方

相手のほうが優れている

「人を自分より優れた者と考えなさい」そう聖書は教えます。

ピリピ人への手紙
2:3 何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい

正しい人だけを優れた者と考えるのではありません。
間違った人をも、優れた人と思わなければならないのです。

一体なぜでしょうか。

彼らが、知らずにいるだけだからです。

事実、あなたが知識を得たのは、あなたが優れていたからでしょうか。
そうではありません。しゅがあなたをあわれんで、真理に導いてくれたからです。

しゅは、あなたに知識を知らせる代わりに、別の人にそうしていたかもしれないのです。その場合、あなたと相手の立場は逆になっていたとは思いませんか?

だったら、何も誇ることはできません。知らずにいるあの人が、もし自分の代わりに立てられていたら、何倍も優れた働きをしていただろう、そう思わなければならないのです。

そもそも、自分が何かを知っていると思うこと自体、間違っています。

コリント人への手紙 第一
8:2 もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない。

これが聖書の教える健全な考え方です。

他者は競争相手ではない

ルカの福音書
22:24 それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った。

意見の違う人に憤りを感じるとき、私たちは「誰が一番偉いか」という争論を始めているのです。

他者は競争相手ではありません。
競争はあなたの心をすり減らすだけです。

相手を打ち負かしたら満足でしょうか?
そのような満足は、やがてあなたの心を悪魔の価値観に染めていくでしょう。そうしてあなたは、実を結ばない枝となるのです。

そんな自己愛、承認欲求、競争心は、今日でなくしてしまいましょう。しゅに刈り込んでもらいましょう。
私たちが望むなら、しゅは必ず私たちをきれいにしてくれます。

ヨハネの福音書
15:2 わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。

おわりに

もう、他者との比較に縛られ、悪魔の価値観で生きていく必要はありません。

隣人を愛せないことは、私たち自身に不幸をもたらします。

勝った、負けた、それはサタンの作り出した思想です。他者の幸福は、決してあなたの敗北ではないはずです。それは喜ばしいことであるはずです。

他人の様子が気になりますか? 嫌われることに我慢がなりませんか?

それなら、イエス様を見つめてください。イエス様ほど真理のために嫌われた人がいるでしょうか。

嫌われてもいいのです。それはあなたの価値を下げることではありません。むしろ、価値を上げることだとしゅは言われます。

ルカの福音書
6:22 人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。
6:23 その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである。

この価値観に生きるとき、私たちの喜びは揺るぎないものとなります。

誤解されてもいいのです。
侮辱されてもいいのです。

しゅを見つめ、しゅのために生きましょう。
そうするなら、あなたの心は完全に満たされ、他者からの承認は、もはや必要なくなるでしょう。

あなたはどう生きますか。
聖書からその答えを見つけてください。
正しいのは、いつだって聖書だからです。

(気に入った記事はSNSでシェアしていただければ幸いです)

こちらの記事も参考にどうぞ。