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なぜ教会は不法にまみれたのか
はじめに
次に主が来られるとき、「不法を行う者」はことごとく御国の外に追い出されてしまうと聖書は教えます。
マタイの福音書
13:40 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終りにもそのとおりになるであろう。
13:41 人の子はその使たちをつかわし、つまずきとなるものと不法を行う者とを、ことごとく御国からとり集めて、
13:42 炉の火に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
マタイの福音書
7:22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
このことを教会が教えないのは、教会が不法にまみれてしまったからです。
どうしてそうなったのか、真剣に学んでみましょう。
不法とは
先ほど確認したとおり、「不法を行う者」は御国の外に追い出されてしまいます。
それなのに、不法とは何かを教えられていないクリスチャンが大勢います。
まずは、不法とは何かをしっかり把握しましょう。
新約聖書において、「律法」を表すギリシャ語に、「ノモス」という単語があります。
マタイの福音書
5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法(ノモス)の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
この「ノモス」に、欠落の意味の接頭辞「ἀ-」がつくと、「律法がない」という意味の形容詞「アノモス」になります。
コリント人への手紙 第一
9:21 律法のない(アノモス)人には──わたしは神の律法の外にある(アノモス)のではなく、キリストの律法の中にあるのだが──律法のない(アノモス)人のようになった。律法のない(アノモス)人を得るためである。
その「アノモス」を名詞にしたものが、不法「アノミア」です。
テトスへの手紙
2:14 このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法(アノミア)からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。
「不法」と訳されていますが、
実際は「ア・ノミア」すなわち「律法が欠落している」と書いてあるのです。
この曖昧な日本語訳のせいで、私たちはずっと眠らされてきました。
本当は「律法の欠落」「律法違反」とでも訳すべき言葉だったのです。
ゆえに、今日から「律法違反」のこととして読みましょう。
ヨハネの手紙 第一
3:4 すべて罪を犯す者は、不法(律法違反)を行う者である。罪は不法(律法違反)である。
このとおり、聖書が「罪」「罪」と言うとき、それは律法違反のことを指しているのです。
それなのに、現代の教会はこのことを必死に隠してはいないでしょうか。
その理由を、あなたは知っているでしょうか。
不法がはびこる
教会に律法違反がはびこることは、キリストによって預言されていました。
マタイの福音書
24:12 また不法(律法違反)がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。
24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
「不法」と訳されていますが、
実際は「ア・ノミア」すなわち「律法違反」がはびこると書いてあるのです。
もうおわかりのとおり、この預言は現実のものとなってしまいました。
一体なぜ、そうなったのでしょうか。
背教が起こり、「不法の者」が現れたからです。
テサロニケ人への手紙 第二
2:3 だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教のことが起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。
2:4 彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する。
この「不法の者」とは、ローマ教皇のことです。
プロテスタントでは、宗教改革の先駆者ジョン・ウィクリフ、宗教改革者マルティン・ルター、ジャン・カルヴァンも、ローマ教皇を反キリストだと見なした。ウェストミンスター信仰告白は、イエス・キリストを教会の頭と告白し、その地位を僭称するローマ教皇を反キリスト、不法の人、滅びの子だと言った。
聖書を読めばわかるとおり、「神の宮」とは私たち教会のことです(Iコリント3:16)。その宮に座し、自分を神の代理者としたローマ教皇こそ「不法の者」であることは一目瞭然でした。それで多くのクリスチャンがローマ教皇を離れ、プロテスタントが誕生したのです。
それなのに、どういうわけでしょう。
現代の教会は、このことを必死に隠してはいないでしょうか。
不法の者
不法の者が出現する経緯は、ダニエル書によってはっきりと示されていました。
まずダニエルは、ネブカデネザルの見た巨像の夢を通して世界の歴史を解き明かします。それはバビロン、メディア・ペルシャ、ギリシャ、ローマと続き、ローマが分裂した十の国々の時代までも預言していました。
ダニエル書
2:41 あなたはその足と足の指を見られましたが、その一部は陶器師の粘土、一部は鉄であったので、それは分裂した国をさします──
その後、ダニエルは別の幻を見せられ、ローマから出た十の国々の中から、ある小さな国が出現することを知りました。
ダニエル書
7:8 わたしが、その角(ローマから出た十の国々)を注意して見ていると、その中に、また一つの小さい角が出てきたが、この小さい角のために、さきの角のうち三つがその根から抜け落ちた。見よ、この小さい角には、人の目のような目があり、また大きな事を語る口があった。
これは今も世界で最も小さい国として存在し、神の宮である教会に座して、大きなことを語っています。
そう、ローマ教皇(バチカン)です。
この小さい角が、何をすると預言されていたでしょうか。
ダニエル書
7:25 彼は、いと高き者に敵して言葉を出し、かつ、いと高き者の聖徒を悩ます。彼はまた時と律法とを変えようと望む。聖徒はひと時と、ふた時と、半時の間、彼の手にわたされる。
時と律法を変えようと望む
小さい角は、時と律法を変えようと望み、聖徒を手中に収めると預言されていました。
4世紀、このことは現実のものとなりました。
ローマ皇帝コンスタンティヌス1世が発令した日曜休業令に従うべく、ラオデキヤ公会議にて、次のような決定が下されたのです。
ラオデキヤ公会議 カノン第29条
キリスト者は、安息日に休息することによってユダヤ化してはならず、むしろその日に働き、主の日を尊ばなければならない。もしも安息日を祭る者があれば、その者はキリストから忌み嫌われよう。
https://www.newadvent.org/fathers/3806.htm
こうして、時(安息日)と律法(十戒)は変えられました。
今や聖徒たちはこれに従い、彼の手に渡されているのです。
ローマ教皇が「不法の者(ア・ノモス)」と呼ばれるのは、このためです。
敵の手に渡された聖徒
キリスト者の祝日を土曜から日曜に変えた理由は、ミトラ教徒とキリスト教徒を一緒に管理したいというローマ帝国の政策から始まったものですが、その根底には不法をはびこらせたいというサタンの思惑があったことを見抜かなければなりません。
テサロニケ人への手紙 第二
2:9 不法の者が来るのは、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、
2:10 また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。
考えてもみてください。
私たちの休む日が土曜日のままだったら、誰もそれに逆らうことはなかったでしょう。全員が土曜日に集まっているのに、誰がわざわざ日曜日に変えたいと言うでしょうか。
私たちが逆らうのは、千年以上も日曜礼拝を行ってきたからにほかなりません。
その長い期間は、私たちがもとの道に戻るのを困難にしてしまいました。
日曜礼拝が間違いであったことを認めるくらいなら、安息日にケチをつけるほうが楽なのです。
神の戒めなど、もはや守らなくてよいと教えるほうが楽なのです。
不都合な真実を隠し、ローマ教皇が不法の者であることを忘れ、ダニエルの預言を未来のこととして先延ばしにしてしまうほうが楽なのです。
こんなことを、いつまで続けるのでしょうか。
不法を行う者が火に投げ込まれるという聖書の言葉は変わりません。
目を背けたところで、神の裁きを曲げることはできないのです。
もう、不法の者に従ってはいけません。
私たちの戦いは、支配と権威に対する戦いです(エペソ6:12)。
不法の者に従い続けるなら、あなたの額にはその名が刻まれ、火に投げ込まれることになるでしょう。
ヨハネの黙示録
14:9 ほかの第三の御使が彼らに続いてきて、大声で言った、「おおよそ、獣とその像とを拝み、額や手に刻印を受ける者は、
14:10 神の怒りの杯に混ぜものなしに盛られた、神の激しい怒りのぶどう酒を飲み、聖なる御使たちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。
14:11 その苦しみの煙は世々限りなく立ちのぼり、そして、獣とその像とを拝む者、また、だれでもその名の刻印を受けている者は、昼も夜も休みが得られない。
14:12 ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」。
最後の一文を見てください。「ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」とあるのが見えますか。
このような人が、額に神の印を得るのです。
エゼキエル書
20:20 わが安息日を聖別せよ。これはわたしとあなたがたとの間のしるしとなって、主なるわたしがあなたがたの神であることを、あなたがたに知らせるためである。
もう、すべてを悟るときが来ています。
頑な心を捨て、神だけに従う心を取り戻してください。
おわりに
なぜ教会が不法にまみれたのか、おわかりいただけたでしょうか。
多くの方にとって、この事実を受け入れるのは難しいことだと思います。
私自身がそうだったので、よくわかります。
それでも、御言葉の剣で戦ってください。
「不法(律法違反)を行う者を御国から取り集め、炉の火に投げ込もう」と書いてありますか?
はい、書いてあります。
「不法(律法違反)を働く者どもよ、行ってしまえ」と書いてありますか?
はい、書いてあります。
念のために言っておきますが、戒めを守れたかどうかは、一切関係ありません。
私たちの失敗は、すべて主が負ってくださいました。過去の分も、未来の分もです。
ゆえに、私たちは安心して戒めに従うことができるのです。
ヨハネの手紙 第一
5:3 神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。
もう、従わない理由は何もありません。
従うなら御国へ、従わないなら炉の火へ入るのです。
人の教えを捨て、聖書を信じる者となりましょう。
正しいのは、いつだって聖書だからです。
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