心に残る映画と名作は違っていたりする
ちょっと、休憩。
川上未映子の小説を読んでいて思い出したのは、脚本家の山田太一の最終作の小説である「空也上人がいた」である。同じく性的な経験が乏しい中年女性の話だった。テレビドラマでできない話。たぶん、恋愛とは性的なあこがれをふくむから描けない世界なのだ。彼はそういった人も描きたかったんだなあと思った。
彼の小説はドラマではできないものに挑戦したものが多い。
その中で一番知られているのはオカルトな描写がある「異人たちの夏」かなって思う。
これは大林宣彦によって映画化されている。
私は、一時期にお盆のころに何度もリピートして泣いていた。
なぜ、泣けたかというと、親の喪失による苦労ということが、中年期の主人公を苛むという話だったからだ。
彼はがんばった。しかし、助けてくれた周りの人を傷つけてひとりぼっち。そんな物書きでである彼はお盆でがらんとした高層マンションでひとり執筆しているが、たまらない気分になる。
そこに若い不幸な女性が助けを求めてくる。しかし、彼は不幸ゆえに彼女を受け入れない。そして、彼は、ある晩に幽霊になった両親と再開する。
この映画は若くして両親をなくした山田太一の体験が色濃いのだ。
大林宣彦は山田太一の故郷の浅草にロケとセットで挑んだ。
そして、浅草そのものの片岡鶴太郎を父に自堕落な魅力がある秋吉久美子を母とした。浅はかで若々しい両親の姿だ。
安アパートの儚げな両親。そして、老舗の料理やで消えていく両親。
私がふるさとの父につれられて行った夜の飲み屋街の猥雑さ、そして、梅田の寄席の夜にいつも語られる桂朝丸のやる気のない落語。ゲームセンターのスマートボール。浅草の夜を見ると悲しくなった。
しかし、私は、たまたま、講演会のゲストが欠席で代理で出席した大林宣彦の話で、「異人たちの夏」の映画への不満を聞かされたのだった。
松竹の人にいじめられて不本意な映画だったと。
なるほど、大林宣彦と山田太一は資質が違う。
公開当時も後半の女性とのファンタジー場面がちぐはぐで、人情劇なのに、だいなしだという批判があった。
最近、社会学者の岸政彦編の「東京の生活史」で山田太一が、隅田川東岸で生まれた俳優さんに、東京でない江戸っ子ぶるなと言ったりして、えらく、いじめた話を読んだ。かなり、意地悪なとこがあった人のようだ。
まあ、作品を見てて驚きはないが、記憶に残るほどとはと思った。
そういったことで白けてしまったのだけど、やはり、山田太一のファンであるつづけるし、「異人たちの夏」好きな映画だと思う。大林宣彦が好きでない映画でも私にとっては好きな映画なんである。
この原作は子供を守るための社会の喪失を描いていると思う。その中で人がどうもがき生きてきたか。がんばったか。
しかし、死が近づいたと感じる中年期、たぶん、夏の盛りで人が最も死に近づくときに、人はこれからどう生きるかを模索するんだと思う。
私は両親がかなり長く生きていたが、子供時代のある時期に喪失してしまった感覚がある。それは親が幼くとどまり、私を守ってくれなかった感覚あるからだ。
たぶん、親とは社会とのつなぎ目で、その守りが薄いと、喪失感があるのは確かによくあることなんかなって思う。
イギリスでこの原作で映画化されたのはそういったことかなと思う。
そして、大林監督で描ききれなかった同じく不幸をもつ同輩を助けることに挑んでいるんだなって思う。
好きな映画と歴史の残る映画は違うんだと思うけど、その問いかけは残っていくんだなって思う。