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沖縄文化論 アートがゆさぶるもの
今、松岡茉優主演のwowwowのドラマであるフェンスに夢中になっていて。
それで本屋さんで見つけた岡本太郎の沖縄文化論を読みました。
この本は知っていたけど、ちょっと警戒してたのですね。沖縄のエキゾチズムを煽る元になってる気がして。
立ち読みしてみると、冒頭に柳田国男の飢餓に陥った父と兄弟たちの話がありました。同じことを感じていたのか。
これって、山田太一の文章のアンソロジーである、生きる悲しみにもあった話でした。
同じように文明の進化がどんなにあっても人間の生きるしんどさは変わらないということなんかなって思います。
むき出しの人間の美しさ無惨さを警告するのがアートだという決意を感じさせるのも同じかな。
岡本太郎は占領下の沖縄で岡本太郎は貧しい琉球王朝が石垣島等の離島の人々はより酷く搾取した跡をたどり、その叫びといえる音楽を採集したりすることにページを割いています。
そして、首里城などの文化を本土の上辺のマネとさばきます。これは私も行ったとき以外だなって感じたことで、薄っぺらいのですね。
思い出したのは、フィリピンで原住民が貧しい原始の暮らしの中の豊かな文化が火山の爆発で移住させられ奪われたあとで、ネスカフェのインスタントコーヒーに夢中になったという話でした。
例えば、日本の仏教文化は大陸からのマネであるのですが、それを何年もの歳月と富の力で付け加えて洗練し運慶なんかに達しています。
そして、滅ぼされても最上の運慶に近づこうとします。
しかし、復帰前の沖縄では地元の酒である泡盛は飲まれていなかった。
オリオンビールが飲まれていた。
伝統が洗練されることなく新しいものが愛されていた。ネスカフェのように、悪くはないです。
でも、古いものは劣化した形で置かれている。
ドラマであるフェンスの背景の腐臭が漂う古い社会のあり方はそれに似てないか。
若い人たちがしんどい思いをして妥協が強いられること、それからの脱出の背景に米兵と女性たちのトラブルがあるのかなって感じたのですけど。
慢性的な貧困と対立と変化を拒むことが若い人を追い詰めていないか。
そんな事を本を読みながら感じました。
こじつけかもしれんですが。
ドラマ「フェンス」は私にもっと足元を考えろよっていうことをうながしているのかもしれません。