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雑誌は雑多だという、しごく当たり前のことに気が付いた

 本の整理をしていたら、何冊かどうしても捨てられなかった雑誌がでてきた。再開した日本版のVOGUEの初号とか、写真が美しすぎて捨てられないでしょう。で、「考える人」の京大総長の山極寿一さんのゴリラ研究を中心に家族についての特集。この雑誌も打ち切りになってるのですね。それもあってか、読むのがちょっとしんどいぐらい力がはいっていた。養老孟司先生のお墓訪問、平松洋子さんの味探訪、志村洋子さんの高野山訪問記、買った当時は情報が多くて読みきれなかった。それを本の整理をしながら、つい読みこんじゃうというありがちなベタな展開。

 是枝監督の家族についてのエッセイ。読み流していたが、「万引き家族」をみたあとだとよくわかる。彼は同世代だけど、下町育ちの私からみても、貧しすぎる家と老けた父親とのツーショット写真があった。あの映画をみるまで、彼の生い立ちには興味がなかった。そうか、ああいったところを抜け出した人なんだと感じた。映画のなかで玄関のくつにおばあさんの切った爪が入っているというエピソードあるのですが、似たようなこと体験しています。うちも家族の境界線がぐちゃぐちゃだったなあ。私は町にとどまったので、その不快さをもやっと感じていたけど、彼は公団にからくも住むことができた。貧困とか戦争の影のある生活から、少し距離をおく客観をもつことができたのだな。そして、読み直すと「万引き家族」は形を変えた自伝なんだなと感じた。

 あと、高野秀行の納豆をめぐる手記があって、これは単行本で読みました。私が好きな食べものネタ。秋田の山奥に旅行したあとなんで、田舎のたべものについて興味深かった。まだ、たくさん記事があって、高山みなみさんのロシア紀行は読めてない。

 雑誌って、ふわっと時間がたっても、病院の待合室とか床屋さんとかに置かれていて、ヒントとして、タイミングがあって、読むもんなんだなあと、つくづく感じた。ある意味、発行された時期のタイムカプセル。きっと、細々とではありますが、雑誌という形式はなくならないなと確信した。


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