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サマータイムレンダの話(主にラストの解釈)

タイトルの通り、サマータイムレンダの話をしたい。
というのもテレビ放送していた去年、1話を見逃して以来2話以降全て録画だけしてずっと見ていなかったこのアニメ、ABEMAで無料放送しているのを知ってやっと1話を見ることができ、録画していた2話以降も一気に見終えたのです。

放送当時からたぶんこれ面白いやつだと感じていたサマータイムレンダ、今回やっと見終えて、感想や考察を少しネットで見ていたところ、どうも自分の解釈とは違うというか「え?そんだけでオッケーなの?もうちょい怖くない?」と思ったので、今回はそのあたりについて書いておくことにしました。

以後、物語のラストについて書くので、完全にネタバレ、見た前提です。


物語の全体像

まず、この話の全体像として1話と最後(24話)が繋がっています。
1話の最初、フェリーの中で居眠りしている慎平の夢?に出てくるのは小舟潮の影であるウシオ。
この影ウシオは物語の最後で目の力を覚醒させ、300年前のヒルコクジラを消滅させた時の影ウシオ。
つまり、今まで見てきたサマータイムレンダ1話からラスト(24話での最終決着)へとたどり着くために、力を覚醒させ時間、空間を自由にできるようになった24話の影ウシオが1話の冒頭に戻ってフェリーの中の慎平に目を渡したのです。

また、同時に欠かせない重要人物である南方ひずるの携帯にボイスメッセージを残したのもこの24話の覚醒影ウシオ。

そして、影が生まれるすべての発端になったヒルコクジラを消滅させたことで24話の影ウシオもまた消滅し、最終話となる25話では影がいない島の物語が語られることになります。

この物語は1話~24話までが一つの円環構造、24話の決着があるから1話が始まる、1話からの流れがあるから24話の決着にたどり着けるという構造になっており、最終話の25話のみがその円環から外れた影がいないという決定的な違いのある並行世界のお話になります。


最終、25話の世界

というわけで24話で発端となる300年前のヒルコクジラを消滅させた覚醒影ウシオは、1話より前に戻り南方ひずるのスマホへメッセージを残し、時空間に浮かんでいる24話慎平を抱きしめながら、次は1話の冒頭へと時空を渡って1話慎平に目を授けることで24話へ慎平が辿り着くための仕込みをします。
その後、覚醒影ウシオは1話の冒頭、慎平の夢?で「辿り着いてね、この結末に。最後の最後に皆が待ってるよ。私が、待ってるから」と言い残して消えます。

そして25話。そこはヒルコが住み付かなかった世界となった日都ヶ島。
ヒルコクジラを消したことでヒルコや影に関したことが過去改変され、神社の名前が違ったり、慎平の両親も生きていたり、ライフル銃を片手に活躍していた根津さんの片目も無事だったりする世界。
当然、小舟潮も生きており全てが平和そのもの。

そこに何故か24話までの記憶を薄っすらと残した慎平が帰ってきます。
これは24話の決着までたどり着いた慎平がやっと到達した平和な世界。
24話の最後で覚醒影ウシオが24話慎平を送り帰した現世となります。


さて、前置きが長くなりましたが、ここからが肝心な私の言いたい部分。

夏と言えば怪談、このサマータイムレンダも実はちょっと怖いラストに思えるのだけど、ネットの感想を見ると意外とみんなそう思わないのかな?と思ったことを書きたいと思います。


25話で二人の記憶は戻ったのか問題

サマータイムレンダを最後まで見た人ならこう書けばピンとくるくらい注目のポイント。
25話の最後、打ち上る花火の中で小舟潮と慎平のこれまでの記憶が戻ったのかどうか。

結論から言うと、私は二人の記憶は完全に戻ったと考えています。
「旧病棟でのたこ焼きの約束」を思い出した瞬間、これまでの1話から24話までのことを思い出し、本当の意味で二人が再開した。
最後の「ただいま」とは、慎平にとって最後のタイムリープ、24話の常世からの本当の意味での「ただいま」なのだろうと。

キーとなるのは25話の中盤、日暮れの浜辺で小舟潮が失くした貝殻のネックレスを慎平が見つけ首にかけてやるところ。
その直前、慎平が自身の影で小舟潮の影を抱きしめる描写があり、またこの貝殻ネックレスがUSBメモリのように記憶データを入れ運べる代物なのはこれまでのお話で明らか。

つまり、24話のラストで覚醒影ウシオが望んだ25話の世界とは影がいないのと同時に自分は慎平と一緒にいたいので、記憶データだけ貝殻に残しそれを慎平が見つけて小舟潮に渡す世界。
24話で「そんなこと言われたら決心が鈍る」と影ウシオは言いますが、完全に消える決心が鈍ったんじゃないかと。

24話の最後に影ウシオが言う「辿り着いてね、この結末に。最後の最後に皆が待ってるよ。私が、待ってるから」とは、1話のこれから大変なことになる慎平に向けてであると同時に、25話の冒頭の慎平に向けてでもあって「私が待ってる」とは25話でも影ウシオは記憶データになって待っているということだと思います。

1話、25話の冒頭のフェリーはちょうど重ね合わせのような状態になっていて、だからこそ24話で影ウシオは時空間に漂う24話慎平を後ろから抱き締めた後で1話のフェリーへと移動していくのだと思います。
影ウシオが1話の慎平へ目を渡すのと同時に、ここで24話慎平を25話の世界の冒頭のフェリーへと送り出しているのではないでしょうか。

ということで、25話の最後の最後で二人は記憶を取り戻し本当の意味で再開することが出来ました。
ネットで感想を見ると私と同じように記憶が戻ったと考え、これでハッピーエンドで良かったといった感想をよく見かけます。

ただ、私はこれには一つ大きな問題というか、見落とされている部分があると思っていて、それは慎平が誰に対してこの「ただいま」を言ったのかです。

記憶が戻ってめでたしめでたし?

よく考えてみてください。
24話まで慎平がずっと影と戦ってきた時のパートナーは小舟潮ではなくその影の影ウシオです。
旧病棟でのたこ焼きの話も人間の小舟潮にではなく影ウシオとのエピソードです。つまり、二人の記憶が戻ったということは、慎平は人間の、島を出ていく時に喧嘩別れした小舟潮にではなく、視聴者もずっと見てきた一緒にタイムリープを繰り返した影ウシオに向かって言っていることになります。

ということは、人間としての小舟潮の記憶は影ウシオの物に上書きされたということになります。

本当に手放しでハッピーエンドと言えますでしょうか?
この物語の前半、人間の小舟潮と影ウシオ二人からの動画メッセージでコピーされ同じ記憶ならどっちでも同じというようなことを小舟潮は言いますが、25話で慎平が「ただいま」といった相手はオリジナルの小舟潮は死んでしまってその後の冒険の記憶を共有した影ウシオに対してです。

これ、8話だったかな?コバマートに攻め込んでネイルガンで捕らえた小早川しおりの影である影シオリと話していた時に「影と長く話すと惑わされる」と言っていた通りの状況に慎平だけでなく視聴者含め全員が陥っていませんか?

25話のラスト、打ち上る花火のシーンでのBGMが主題歌やエンディング曲でもなく何とも言えない雰囲気の曲…。
私はあのシーンを見て「あ…小舟潮が影ウシオに乗っ取られた…」と感じて軽く恐怖しました。

そういえば、貝殻ネックレスを見つけ渡すシーンの前で慎平が影で小舟潮の影を抱き締めたのも、すでに慎平が好きな相手は小舟潮ではなく影ウシオになっているということかと自分の中で合点がいってしまい、これ、人間の小舟潮にとっては…とバッドエンドともハッピーエンドともつかない妙な気分のまま終わりを迎えました。

別にハッピーエンドを望んでいたわけではないので、こういうラストでもとても面白くて良かったですが、でもまぁやっぱりそんな単純なハッピーエンドじゃないよなぁといった感じです。

とりあえず、私が一番気になった部分はこんなところ。

他にも影ウシオの元になったのが神、ハイネの右目。
これは日本神話のイザナギの右目から生まれたツクヨミがモチーフ?
ツクヨミは夜や「潮の八百重」(海の潮汐)を治めるけど、25話の最後の最後が夜の島の遠景で月が上がってるのはそういうこと?など、調べると色々深堀りできそうで面白かったです。


あ、あと最後に気になった部分がもう一つだけ。

慎平が乗ってくるフェリーが立てる波だけが映し出されるシーンがありますが、あれ、クジラの尻尾に似てませんか?

300年前のクジラ(本物じゃなくクジラのようなヒルコ)が島に来ることでこの島と影の物語が始まり、現代、慎平がクジラの尻尾のような波を立てるフェリーでやってきて300年の物語が終わるとも、現代の物語が始まるとも言えて、島という閉鎖環境でクジラは何かを運んでくるんだなと感じたという私の妄想で終わります(笑)

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