
スワロー亭のこと(10)「マス」に腰が引ける
スワロー亭オープンの実質的な初年にあたる2016年。開店当初は、直接間接に知った友人知人がポツポツと立ち寄ってくれていた。
新店舗のオープン当初によくある流れとして、初速は飛躍的に伸びるが徐々に減速し、やがて沈滞、そのまま打つ手もなく短期終了、という展開がある。
スワロー亭はどうだったのか。通常、新店舗をオープンした人たちは、宣伝に力を入れるだろう。一人でも多くの人にまず存在を知ってもらう努力をするだろう。それに対してスワロー亭は開店当初、あろうことか「紹介してあげますよ」というオファーを断っていた。同じメディアの方が、折にふれて店を訪ね、「取材を」と声をかけてくださる。この時期おもに店に立っていた奥田は「いえ、今はまだ……」とお茶を濁していた。
メディア露出に対して気が乗らなかった背景のひとつに、店の経営における先達である友人の影響がある。ここでは仮にTさんとする。Tさんの店は現在、厚い信頼と人気を得ている。「繁盛店」という呼び方がTさんの意に沿うかどうか判然としないが、なにしろ近隣では定評がある。
スワロー亭よりも数年早く始めていたTさんの店。今でこそ地元の人気店として知られているが、オープンして3年ほどは「待てど暮らせどお客さんが来ない」という日が続いたという。当時を振り返ってTさんはあるとき「あの地獄が」と表現していた。たいへんな時期を経て、なんらかの変化を重ねながら、Tさんの店は今に至っている。
Tさんの店のあり方に、奥田と中島はある種の尊敬を寄せている。世間に対して媚びない。自分の店は自分のやりたいようにやる。その姿勢を貫くTさんに見惚れている。
そのTさんは、各種メディアから取材のオファーを受けてもすべて断ってきているという。SNSでの自発的な宣伝行為にも興味を示さない。
Tさんほど徹底することはできないが、Tさんのその割り切りには共感できるところがあった。それがメディアの取材を受けずにいた理由のひとつだ。ただ、「ひとつ」であってそれがすべてではない。
開店に至るまでのスワロー亭は、もちろん自分たちが「古本屋をやりたい」と思っていたし、周囲にも希望を話してはいたものの、準備のプロセスはどちらかというと風まかせだった。バリューブックスから古本が届いた。快晴堂から洋服が届いた。知人から書棚を譲り受けた。壁に穴があいた……。自分でいうのもなんだが、それらの事実に文字どおり背中を押されるようにして、やっと動きだしたという印象が強い。
つまり、スワロー亭という場に対して、自分たちの態度がまったく固まっていなかった。無理やりポジティブに捉えようとすれば、無限の可能性を秘めているといえなくもないかもしれないが、とにかく店についてなにも決まっていなかった。まだ内臓も手足もできていない胎児のような状態で、開店するだけしてしまったスワロー亭が、メディアに紹介されることによって、御しがたく不本意な方向へ流れていってしまうのもいやだったし、また紹介されるに値するような状態ではないという思いもあった。
もうひとつ、「マスメディア」の「マス」に対して積極的な気持ちになれない、ということもある。大きいものが、その大きさゆえに(もしかしたらなかば無自覚に)振るってしまう「ちから」に、ある種の違和感を奥田も中島も抱いていた。
これはもしかしたら自分たちが小布施へ引っ越してきた理由ともつながる部分かもしれない。小布施へ移る前、東京メトロ東西線沿線に住んで、奥田は皇居を見下ろすビルにある会社に通勤し、中島はフリーで仕事をしていた。その生活が転機を迎えることになった直接のきっかけは「3.11」だった。
その日、中島は自宅の仕事場で原稿を書いていた。玄関の呼び鈴が鳴って、出てみると生協の勧誘だった。まったくやる気がなかったので、どうやってやんわりとお断りしようかと言葉を選んでいたところに、大きな揺れがきた。家の建物がミシミシと音を立てて揺れ、玄関前に停めてあった自転車がすぐに転倒した。周囲を見回すと、視界に映る建物や電柱や木々が一斉にユラユラ揺れていた。気がつくと、生協の勧誘にきた初対面の相手と、手と手を握り合っていた。
当時すぐ隣におしぼり工場があった。工場に通勤している女性も揺れに驚いて道へ飛び出してきた。揺れが収まったところで、なにかたいへんなことが起きたらしいことを確認しつつ、「とりあえず、生きててよかった」と、口をきいたこともないその女性と抱き合って身体をなで合った。無事だったから苦笑いもできるが、うっかり倒壊家屋の下敷きになっていてもおかしくないできごとだった。
同じころ奥田は、会社から取引先への移動中だった。激しい揺れで、地下鉄もバスもすべて止まった。いつ復旧するかもわからず、出先から会社まで4時間ほどかけて歩いて戻ったという。
その奥田から「津波がくるらしい」と短いメールが中島に届いた。さっきの揺れで書棚から落下した本を棚に戻していたときだった。
「津波……?」。頭のなかが「?」でいっぱいになった。
当時住んでいたのは東京湾と江戸川に挟まれたおよそ標高0メートルの場所。江戸川まで徒歩2、3分の距離で、東京湾に注ぐ河口も見えた。東京湾にも歩いて出ることができた。つまり海がごく近い低地だった。津波がくるとして、今からなにができるのか? 車に乗って、もっと内陸へ逃げなければならないのか? 頼れる情報が手許になかった。
奥田の会社から自宅まで、東西線1本で約20分。しかし公共交通機関がすべて止まっていたため、その日は帰宅できなかった。
翌朝会社は、なにごともなかったかのようにまた「ビジネス」の続きにとりかかったという。しかも皆、土曜日の休日出勤だった。クライアントが動いている以上、受注者である自分たちが止まるわけにはいかない。関係性の網目にすっかり心身を絡めとられて、のちに東日本大震災と名づけられた非常時下にあってなお、誰も今、自分がどうするべきなのか、どうしたいのかを判断できないような状況があった。
そのことで、奥田のなかのなにかがバランスを崩したようだった。基本的に呑気で陽気な奥田が、3.11を境に沈みがちになり、やがていらだっていった。
これ以上、いままでどおりの経済活動に参加しつづけることはできない。そう自覚した奥田は2011年暮れに30年間勤めつづけた会社を辞職。社宅扱いで借りていた住宅も退去することになった。その後の行き先として選んだのが小布施だった。
おそらくもっと以前から、奥田も中島も、資本主義経済を動かすコマを演じつづけなければならない現状に疑問を感じてはいたのだろう。それがこの経験をつうじて決定的になったように思う。
そのことと「マスメディア」がどこまで直接的にリンクするのかはまだはっきりとわからないが、大きいちからが近づいてきたときに身体がなにかしらの警報を鳴らしているような気はする。そんなこともあって取材のオファーには乗らず、告知活動といえば自前のホームページとSNSでの投稿にほぼ限っていた(世界に向けて発信している意味では充分「マス」である、という見方もできるが、たぶん実際にはそういう大きな効果はない)。
オープン当初の蔵書が1000冊あるかないかという規模。しかも「活字離れ」はおそらくさらに加速しながら進んでいる。ごく一部の限られた人たちにしか知られていない地方の小さい町の極小古本屋に、それほど人がくるはずもなかった。
住居のなかで、店舗と仕事場は廊下を挟んですこし離れた場所にあった。その奥まった仕事場で、中島は当時ひたすら原稿を書いていた。引きこもらないと集中が途切れて原稿が書けないのだった。店に立つのはほとんど奥田の担当となった。奥田は店にレジ台がわりの机とパソコンを置いて、仕事をしながら店番をしていた。
お客様が訪ねてくださるとき、奥田は楽しそうだった。なかには好きな音楽の話で盛り上がれるお客様もいた。しかし圧倒的に長い「無人の時間」を、すぐに奥田はもてあますようになった。退屈していた。
もともと主たる収入を得られるような成り立ちの店ではない。二人とも本が好きで、望んでオープンした古本屋ではあったものの、なんとなく店に対して気持ちが入っていなかった。店をやっている人間の意識のありようは、じかに接することがなくても、外からでも察せられるものかもしれない。
(燕游舎・中島)