アートについて考えること
高架下芸術祭を終えて
9月中旬から続けていたイベント「高架下芸術祭」が終わった。
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高円寺図解の一貫として高架下を描きたいという思いを、知人を通じてJRの方に伝えたところから始まった高架下芸術祭。最初は高架下のどこかで、長い絵巻物を制作して展示したいというシンプルな想定だったが、小杉湯の番頭たちや小杉湯で普段お世話になっている企業さんを巻き込んだ大きなイベントとなった。約一ヶ月半の時間をいただいて、私は高架下の空間を3mの絵巻物に表現した。タイトルは「高架下絵巻」だ。
正確性と細かさが肝となる作品なので制作中は気を抜くことができず、常に頭がONモードで若干鬱になりかけもしたが、ある程度まとまりのある作品になったと思う。ちなみに完成度はまだ7割程度なので、年末に再度手を加えて改めて公開する予定だ。高架下絵巻を描いて何より嬉しかったのは、JRの方々から「今の高架下の風景が魅力あることに気づいた」という感想をもらえたこと。ここ最近、都内で駅前エリアの再開発をよく目にするようになったが、開発によって歩きやすく清潔な街並みになった一方、その地で培われてきた文化は跡形も無くなったと感じることが多かった。建築に携わってきた身として、そのような現場を目の当たりにする度、無力感と侘しさを心底感じていた。だからこそ、絵を通してディベロッパー側にメッセージを投げかけられたことに強い力を感じ、また、その表情を見て、言葉で伝えるだけでは届き得ないほどメッセージが深く刺さっていることを実感した。
高架下絵巻物は、大学時代に研究の一貫として描いた絵をもとにしている。舞台は佐賀県鹿島市。研究室のプロジェクトで関わってきた地方で、街並みの色彩をテーマにした卒業論文のためにこの絵を描いたのだが、完成した絵を町の人に見せると「自分たちの町がこんなに良いと思わなかった」と驚いてくれたのが印象的だった。これは銭湯図解にも共通している。取材を申し込む際、「うちみたいな銭湯を描いたって仕方ないよ」と言われることが何度かあったが、完成したイラストを届けると「うちは良い銭湯なんだね」と晴れ晴れした表情を浮かべてくれた。時にはお礼の品までいただく事もあり、「取材をお願いした立場なのに申し訳ない」と思いつつ涙が滲んでしまった。
アートには既存のイメージを変える力がある
先日、大きな展覧会に訪れた時に、「この絵ってどんな意味なんだろうね」と難しそうな顔をしながら作品を通り過ぎる人を見かけた。その人だけではなく、二人組以上できた人のほとんどはそんな会話をしたように感じた。
「筆者の考えを述べなさい」「この絵画を通した作者の気持ちを書きなさい」学校教育では、当然のように、アートに対する作者の考えを読み解こうとする。私はそれは無理だと思う。なぜなら他人は自分ではないからだ。考えていること、感じていること、そして見えているものすら、自分と他人が同じものを感じていると証明する事はできない。そんな事、体を取り替えない限りできっこない。いくら言葉で共感しても、私が理解している言葉と相手が理解している言葉が同じとは証明できない。それを証明しようとしてもまた新しい言葉が必要となるからだ。”あなたと私は一緒”という考えが根底にある学校教育では、アートは一種の作者の考え当てゲームのように成り下がっている。アートに対して感じる事は人それぞれ違っていて良い。何なら、「面白いかどうか」それだけでもいいと思う。作品を見てわからないと思えばそれでいい。感動したと思えばそれでいいのだ。そこに答えはいらない。アートをみて、あなたがどんな気持ちになるのか。大切なのはその一点だ。
考え当てゲームが浸透している今の世の中では、芸術はハードルが高く難しいものとして捉えられがちだ。アートを嫌煙し「何の意味がある」と言われることもある。確かに、コップや椅子のように役割がハッキリしている道具ではないし、アートがなくとも人は生きていける。しかしそれでも、私はアートに強い力と可能性を感じている。アートには、他のものにはない「既存のイメージを変える」力があるからだ。
先日、映画「ジョーカー」が公開された。社会的弱者の立場にあった男がどん底に突き落とされながら、悪のカリスマとして力を得ていく物語だ。この作品が人々に悪影響を与える可能性があるとして、公開に際してアメリカでは警戒を強めたそうだ。公開後すぐに私も見たが、確かに純粋にジョーカーに憧れた。悪の象徴としてでなく、自分も人の心を震わせたいというどちらかというと正のエネルギーとしてではあるが、その言葉や、姿や、振る舞いに鮮明に惹かれ、鑑賞後一週間ほどは自分がジョーカーであるかのような心地に浸った。私以外にも、友人のクリエイター達もジョーカーに惹かれ、何度も足を運んでいた。SNSを見てもジョーカーに胸を動かされた人は多い。「ジョーカーはおれだ」というように、まるで自分ごとのように深く感情に刺さった人が多いように見受けられた。
あの映画をみて泣いた、あの小説を見て元気がでた、あの演劇をみて登場人物と同じようにイライラしてしまったなど、アートを話すとき、私たちは自然に自らの感情を含めてアートを語る。思うのだが、こんな風に感情を左右させるものは他にないのではないか。それも深く、長く、強く。アートは感情を揺さぶり、そして、イメージを変える。ジョーカーを観た後に、映画を観る前の視点でジョーカーやバットマンを捉えることができるだろうか。私たちはもう、ジョーカーを観た世界からしかバットマンを捉えることはできない。アートは深く感情を揺さぶり、元あったイメージを変え、そして細やかかもしれないが確実に世界を変えてゆく。私たちの目に見える物事を物理的に変えるものはいくらでもある。しかしながら、私たちの内面の世界を変えるのはアートにしかできないことだ。
大学時代の町の絵、銭湯図解、高架下絵巻。今思うと、いずれも絵を通して町や建物への既存のイメージを変える行為を行っていた。
小杉湯に転職する以前、私は大学で建築を学び設計事務所で働いていた。建物というハードから、物理的に町の風景やそこに住う人の生活を変えていたが、今は絵を通して内側の風景を変えているのかもしれない。そうすると、今やっていることはある意味、建築的な行為だ。
人は過去に執着し、未来に期待する
人は過去と未来への信頼は厚いが、今への信頼は欠落しがちだ。あの町、昔は良かったんだよね。この先こんな建物ができるなんて楽しみだね。という話はよくあるが、今への視点はすっかり抜け落ちてしまっている。それは自分に対してもそうだ。昔の自分より今の方が良いと胸を張って言える人が何人いるだろうか。今の自分より未来の自分の方がずっといいと、あなたは確信していないか。今の自分を変えるために、今の自分はだめだから、昔の方が、未来の方が、絶対に良いと信じていないか。
きっと多くの人がそう感じている。私だって、自分がずっと嫌いで、将来に立派な人になろうと常に努力を絶やさず生きていた。しかし、今の感情や今の体を無視して消耗した結果、歪みが生まれ心身ともに病んでしまった。今を否定して素晴らしい未来を作ろうと努力しても、今の感情との歪みが生じる。また、過去を賞賛し続けても今の私が豊かになることはあり得ない。私は建築家という大きな未来を信じて、今の私を置き去りにした経験があるからこそ、過去と未来に期待することはやめた。今、私が抱いている感情、私が欲しいと思っているもの、私に与えられているもの。それを改めて見直し、慈しむことが本来大切なことなのだと実感している。そうすることで、未来は自然と繋がるし、過去からの思いも繋がってくる。
それは街並みや建物に対しても同じだ。未来の風景を作る上で、過去の歴史を保存する上で、やはり大切なことは今あるもの。今ある生活。今そこにいる人。それらと向き合うことをしなくては、過去も未来も分断されたチグハグで醜い風景が出来上がる。
私は”今ある風景”を絵に描くことで、欠落していた今への視点を取り戻すことを実践してきたと思う。逆にそういった思いを無意識に持ち合わせていたからこそ、高架下ではJRの方の胸を打ち、銭湯図解では銭湯にまつわる人の胸を打ったのかもしれない。銭湯図解では、本を出したこともあり、銭湯の今への眼差しはきっと広がっていると感じている。その眼差し、考えが、この先の銭湯や、高架下を形作るのだろう。
この先具体的に何をやるかは模索中だ。しかし、これまでの活動を通して自分の役割はハッキリしてきたと思う。建築や街並みに対する「今ある視点」を絵で提示すること。それを今後もいろんな場を通じて行なっていきたい。そして、それにまつわる人々と繋がり、未来を共に作っていけたらと思う。
来年は小杉湯とのパラレルキャリアとして、そういったイラストの活動の幅を広げていきたいと考えている。建築にかかわらず、今ある眼差しを伝える活動を、絵や時にはトークも交えて、多くの人に投げかけることができれば幸いだ。