忘れられない銭湯の思い出
銭湯のお客さんはなかなか濃ゆい人が多い。小杉湯の番台に座るようになってからも、何度もそう思った。
例えば、いつも夜に来てくれるおばあさんは、ちょっと腰が曲がっていて、笑顔がなんとも可愛い常連さんだ。最初は番台で挨拶するだけだったけど、今日は寒いねぇなんて他愛もない話をしていくうちに仲良くなって、たまに飴だったりチョコだったり、差し入れをしてくれるようになった。番台の仕事は体力勝負なので、そういう甘いモノは大歓迎だ。
そんなある日、おばあさんはいつにも増してピカピカの笑顔で透明なポリ袋を渡してきた。中を見ると、白いキノコがぎっしり。
「これ、今日採ってきたのよ! 食べてみて!」
どこで……? これ食べて良いキノコなんですか?
善意五〇〇%の笑顔を浮かべるおばあさんにそんなことを聞けるわけもなく、家に持ち帰ってビビリ倒しながらバターでソテーしてみたら大変美味しい椎茸でした。
ちなみに、そのおばあさんはいつも腰を曲げてトコトコ歩いているので、「行き帰りどうしてんのかな」と後ろ姿を追いかけたことがあるが、めちゃくちゃイカついスクーターに乗って颯爽と帰って行った。後日、喫茶店の前でタバコを吸っている姿も見かけた。想像の百倍逞しかった。
他にも、お風呂場で泥パックをめちゃくちゃ勧めてきて、なんだか悪くて断り続けていたら最終的に顔に塗りつけてきた押しの強いおばさんとか、食べかけのパンをくれるおばさんとか、パチンコで勝つと景品を差し入れてくれるおじさんとか、本当に色んな人がいる。
番台に座っていない時にも忘れられない出会いがあったので、厳選した三人を紹介したい。
その一、アイスピックおばさん
某銭湯の朝湯に行った時の話だ。どこの銭湯に行っても、開店時間直前はおじいちゃんおばあちゃんたちが一番風呂目指して目を光らせているのである。
その日も開店と同時に雪崩れ込んでいく猛者達を見送った後、のんびりと暖簾を潜り会計を済ませた。その銭湯は熱い黒湯が有名だ。足先をつけただけで「あちッ」と飛び上がりそうな温度の黒湯に肩まで一気に浸かると、途端に電気のようなビリビリした感覚が肌を走る。最初は痛気持ちいいこの感覚が苦手だったが、あらゆる銭湯のあつ湯に入るうちすっかり病みつきになった。もはや四十五度ぐらいないとあつ湯に入った気にならないほどだ。
さて、あつ湯で体も温めたところでサウナへ……とサウナの扉を開くと、扉のすぐ脇の床でおばさんがあぐらをかいていてギョッとする。一段目も二段目も空いているのに、なぜ床に……? しかも、よく見るとめちゃくちゃ私物を持ち込んでいる(ちなみに、タオル以外の私物をサウナ室に持ち込むことは基本的に禁止されている)。
まず、サウナマット。しかもヒョウ柄。そしてお腹に巻いているピンク色の半透明の帯。発汗を促すらしく、サウナで使っている人をよく見かけるが、実際の効能はどうなのだろう。
さらに、髪をまとめるタオル、美顔ローラー、足の指を広げるクッション、マグカップ。
えっ? マグカップ? 思わず二度見した。
あらゆるサウナを巡ってきたが、マグカップを持ち込んでいる人は初めてだ。強い……ここまでサウナで自分の世界を貫き通せるなんて、もう色々強いな……。
呆気に取られているうちに、汗をじっとりかいてきたのでサウナ室を後にして水風呂へ向かう。二人しか入れないコンパクトサイズの水風呂なのだが、体を折り曲げて入る感じが家風呂のようで落ち着く。
水風呂を出た後、露天スペースがないので、カランの前に座って目を瞑って浴室内の音に耳をそばだてる。ゴボゴボというジェットバスの音、カーンという桶が落ちた音、ガラガラと開く扉の音、お喋りするお客さんの声……様々な音を聞いているうちにドクドク鳴っていた心臓がだんだん静かになり、深く呼吸をすると清らかな水が体に入ってくるような爽やかな気持ちになる。
「やっぱり銭湯はいいなあ……(ガッガッ)特にゴボゴボというお湯の音がたまらないんだよね……(ガッガッ)銭湯は最高なんだよなあ……(ガッガッガッ)」
ん? ガッガッ? 時折の荒々しい音に首をひねり、瞑っていた目を開いて音が聞こえてきた方に振り向いた。
さっきのおばさんが、アイスピックで氷を削っていた。
えっ何やってんの? 呆気にとられる私をよそに、おばさんは真剣な表情でアイスピックで氷の形を丸く整え、例のマグカップに入れた。その上から五〇〇ミリペットボトルのマテ茶を注ぎ、何食わぬ顔でサウナに持って行った。なるほど! 確かに、氷を入れるならペットボトルじゃなくてマグカップがいいよね?。
謎の納得感を得て、今日は色々お腹いっぱいだからもう帰るか……と、私は浴室を後にした。
その二、親切なおばあさん
地方の銭湯が好きだ。以前、交通新聞社の雑誌『旅の手帖』の「百年銭湯」という連載で、全国各地の創業百年以上の銭湯を巡ったのだが、どれも魅力的で本当に素晴らしかった。
毎日利用する常連さんがほとんどなので、各銭湯ならではのコミュニティが作り上げられていて、その人たちの輪にお邪魔しながら話を聞くのが楽しいのだ。常連さんの私物やプレゼントがロッカーに置かれていて、誰かの家に遊びに来たような雰囲気なのも面白い。早い時間に行くとお年寄りの方が多くて、私のような若僧を可愛がってくださることもある。
あの銭湯に行った時も、そんな風にとてもよくしてもらった。
北陸地方のとある銭湯。そこは、家族風呂を少し大きくしたような小さな浴室が可愛らしく、隅々まで掃除が行き届いていてとても心地よい銭湯だった。常連さんはみんな親切で、脱衣所で顔を合わせるなり「あら、どこから来たの?」と声をかけてくれた。
「雑誌の取材で来ました?。これからこの銭湯の絵を描くんですよ!」
「へえ??。良いわねえ! 出来上がるの楽しみにしているわよ」
朗らかに笑うおばあさんの笑顔に、取材疲れが溶かされる。ああ、こういう銭湯の会話ってなんでこんなに癒されるんだろう……。浴室に入っても、他のおばあさんが温かく出迎えてくれた。
「今日は寒いから、あったまらないとねえ」
「そうですね??。今日はほんと冷えますね」
「ね??。あっ、あなた、せっかくだから背中洗ってあげるわよ! ねっ!」
まさかこんなところで、初対面の方に背中を洗ってもらえるなんて! 悪いなあと思いつつ、折角だからお願いします……! と自分のタオルを持っておばあさんの方に振り返ると、おばあさんは泡だらけのタオルを手に笑顔で立っていた。え、そのタオルさっきご自身を洗ってたやつですよね??? え、待って、それ使うんですか? いやこのタオル使ってくだ……。
「背中洗ってあげるわね??!」
ああああああああああああああああああああ!
私の声が届く間もなく、おばあさんの体を洗ったタオルで背中をごっしごしと洗われていた。叫びを呑み込み「良い力加減ですね!」と最高の笑顔を振りまいた。
ひとしきり背中を洗ってもらい、おばあさんが立ち去るのを笑顔で見送った後、「いやあ、こういう思いがけないことがあるのも最高だよな……!」と思いつつ、もう一度自分のタオルで背中を洗った。
その三、近すぎる子供
打ち合わせで某銭湯にお邪魔した時のこと。打ち合わせ後、折角だからお風呂に入っていきませんか? と店主さんからお誘いいただいた。
その銭湯は広々とした立派な露天があり、そこでの外気浴が大好物なので、やや食い気味にご厚意に応じ脱衣所に突進した。
その日も、あつ湯で体の芯までたっぷり温まった後、しっかり冷えた水風呂にザブンと浸かり、庭を見ながら外気浴を楽しんだ。しとしと雨が降り注ぎ、いつもよりも風情を感じさせる日本庭園風の庭を見つめていると、深い海に沈んでいくように心が落ち着いてくる。今日も最高だった……ホゥとため息をついていると、突然、子供が浴室から庭に躍り出てきた。四、五歳ぐらいの子だろうか。むっちりしていて、あどけない表情が可愛らしい。
「ゆうちゃん(仮名)ね! お母さんに見つかっちゃだめなの!」
窓から浴室を見ると、お母さんらしき女性がガン見している。ゆうちゃんが知らない人にも気さくに話しかけているのが面白いらしく、めちゃくちゃ笑っている。
「見つかっちゃう! しゃがんで! ホラァ!」
ゆうちゃんは、私たちが腰掛けていたベンチの端に座り、小さい体を折り畳んだ。そしてなぜか私の背中をバンバン叩いて「一緒にしゃがんで!!」と叫ぶ。
ええ……! なんで? 理解を超えた事態にたじろぎつつも体を前に折り曲げ、ちらりと再び浴室を見るとお母さんはこっちを見ていた。全然バレてんじゃねえかよ!
「は???バレなかったねえ、よかったねえ」
「ゆうちゃん、いつもこのお風呂にきてるの?」
「そうだよ! へへっ」
ゆうちゃん、突然ポーズを決めて変顔をする。この子ポテンシャルどうなってんだ?
すると、ゆうちゃんはベンチを降りて、座っている私の前に立った。そして「ゆうちゃんね??」と言いつつ、勝手に私の膝に腰掛けてきた。
距離近すぎない???
裸だよ? なんで知らない人の膝に座ってくんの? 呆気にとられていると、当然のように自分の話を始めるゆうちゃん。待ってこれ、わたし、捕まったりしない? 不安で浴室を再び見ると、もうこちらの様子も気にせずお母さんは気持ちよさそうにお風呂に入っていた。娘さん、パーソナルスペースとんでもないことになってるけど、大丈夫ですか?
ゆうちゃんはその後も他の人の膝に座ったり、突然クイズ大会を始めたり、かくれんぼをしたり、なんかもうやりたい放題だった。私と一緒に帰りたかったみたいでぐずっていたけど、最後は「すいません、ありがとうございました」と挨拶をするお母さんに引きずられて浴室を後にして行った。
またね、ゆうちゃん。人との距離を、もう少し学んだ方がいいと思うよ。
銭湯での出会いは想像を超えることばかりだ。今はコロナの影響で喋りづらい時期だけれども、またすごい体験があればぜひ報告したい。
『湯あがりみたいに、ホッとして』
2022年11月17日 双葉社より発刊
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