夕涼みのサイバネティクス 上
8月28日。私の部屋に押し込められたスーパーコンピュータは、相も変わらず高熱にうなされながら働き続けている。18度に設定したエアコンとともに唸り声を上げつつ、機械らしく正確かつ複雑な計算を行っているらしい。ここ数日ぶっ通しで、ソレは人知を超えた計算力を遺憾なく発揮している。私の光熱費を燃料にし、ただでさえ狭い部屋の中央を占拠して無駄な仕事をし続けているのだ。
ソレが私の元に来たのは8月17日のことであった。弟が突然、巨大な段ボール箱5つ分の荷物を送りつけてきた。目測で横幅約1メートル、縦幅約60センチ、高さ約50センチあると見た。明らかに普通の荷物ではないと一目でわかった。かなり重いので玄関に置きますね、と言った配達員さんは、あくまでも辛そうな顔をせず縦に持ち替えて運んでいたが、汗の染みた帽子から覗く額はてらてらと光り、制服のポロシャツが体に張り付いて筋肉を強調していた。見慣れない制服だったため、企業名を検索してみた結果「特注の段ボールに入った荷物を専門に配達する運送屋」であることがわかった。何も言わず、そのような企業を利用して大量の荷物を送りつけてくるとは一体何事かと思い、電話を掛けたが全く繋がらない。他の方法でも連絡を試みたが応答は無い。仕方がないので母に電話で弟の安否を尋ねると、
「あぁ、あの子は『カメアリ」にいるんだよ。」
という答えが返ってきた。カメアリ・・・?亀有のことだろうか。確かそこを舞台にした有名な漫画があったな。でも何で私の弟がそんな場所にいるのか。彼は地元にある半導体工場に勤めているはずだ。
「戻ってくるかしらね。」
母はあまりにも意味深すぎる一言を言い残し、電話を切ってしまった。これはさすがにおかしいと思い何度も掛け直したが、全く繋がらない。他の方法でも連絡を試みたがもちろん応答は無い。きつい不安感が目の前の景色を歪めて全身を鼓動させ、肺をきりきりと締め上げる。極度の緊張状態になるとこのような感覚になるのか。初めて知った。一旦冷静になるため、呼吸を整え自分が置かれている状況を考えることにした。私には父も祖父母もいないので、母と弟だけが私の家族である。実家は遠く離れているので簡単には帰れない。生まれてこの方家族以外の他人と関係を築いた経験もない。
天涯孤独。この言葉ほど、今の私にぴったりな言葉は無かった。
そんな辛い現実から目を逸らしたくて、今日の前に広がっている現実に目を向けた。とりあえず箱を開けてみようと思い立ち、天地無用と精密機器のシールと伝票が貼ってある4箱は異様に重く、部屋の中に入れるには引きずって移動させるほか無い重量である。重いものと床がこすれる音を部屋中に響かせ、腰をかすかに痛めながらも、何とか運びきった私は大きなため息をついた。隣人のことが頭をよぎったが、隣は最初から空室であるのを思い出してまたため息をついた。あと一箱残っている。重い腰を上げ、これで最後だと自分を奮い立たせて玄関に向かった。
その箱は異彩を放っていた。荷物を受け取ったときには全く気が付かなかったが、箱の全ての面に赤のペンで「天地無用」と書いてあるのだ。しかも字が綺麗ではない人が急いで書いたような字で、ぱっと見た時は落書きをされているのかと思ったくらいだ。シールは何も貼られておらず、伝票がただ貼ってあるのみだった。そして一番私を驚かせたのはその軽さであった。まさに箱を組み立てて送っただけと言うにふさわしく、軽く振ってみたが無音だった。空箱を送るなんて弟も不思議なことをするものだ。ひょいと両手に抱えて立つと、床がかすかに軋んだような気がした。
全ての箱を開けると、中にはそれぞれ奇怪な機械の部品が整然と詰め込まれていた。梱包は必要最低限で、精密機器にも関わらず新聞に包まれているものもあった。部品の一つを手に取ると、見知った地名が書かれたお悔やみ欄が目につく。地元の新聞が使われていることに気が付いた刹那、意識が飛んだ。
酷い頭痛を感じて目を開けると、よく知っている天井が見えた。紛れもなく自分の部屋だ。いつの間にか床に寝転がって眠っていたらしい。まだ明るいが少し陽が落ちていた。今何時だろうか。スマホを探すために身を起こすと、見覚えのない巨大なものが視界に入った。とっさにドアの前に体を滑らせ、壁に足がぶつかって大きな音が出たのも気にせず相手を凝視した。緑色の光やコードが整然と並んだ、自動販売機を彷彿とさせる黒い直方体。これは幻覚だ。私はまだ夢を見ているらしかった。床には5箱の段ボールがあったはずだが4箱が消えており、あの軽い箱だけ残っているのが不気味で仕方がなかった。とりあえず頬をつねることから始めて、顔を洗ったりコーヒーを飲んでみたりと夢から醒めるための努力をしてみた。しかし、直方体は悠然とそこに鎮座していた。どうしてこんなものが私の部屋に突如として現れたのか。そしてなぜあんなにあった荷物のほとんどが消えているのか。超常現象か何かだと決めつけて思考を放棄したい。しかし、冴え渡った思考回路がそれを許さない。私の意志とは関係なく思考回路を回転させる脳は、自分が自覚している能力の範囲内で働いていたのかどうか疑わしかった。お陰で5秒もかからずに現実離れしているが辻褄の合う解答が導き出されてしまった。私は意識を失っていた間にあの奇怪な部品もダンボール箱も一つ残らず使用し、この直方体を作った、ということ。答えに辿り着いた思考はようやく回転を止めてくれたので、改めてその直方体を観察することにした。近寄って触れてみるとソレはプラスチックと金属の中間のような質感で、ひんやりとして揺るぎないがどこか柔軟であり、どのような衝撃を加えても破壊されることは無いだろうと直感した。この未知の素材についての考察を始めようとした刹那、今度は気も狂わんばかりの頭痛に襲われた。この謎の直方体が完成するまでの様子が凄まじい勢いで脳に取り込まれていく。脳内での私は、使い慣れた道具を扱うかのように触れたことも見たことも無い部品を淡々と組み立てていた。その間背伸びをしたりしゃがんだりしたような目線の移動があったが、なぜか一定の速度で体勢を変えていたように感じられた。10分ほどで完全に組み上がった機械は複雑怪奇で、普段の私が一人で組み立てたとしたら1ヶ月はかかるだろうと推測した。完成した機械を一瞥すると、床に放置されている段ボール箱たちの処理に取り掛かった。畳んだ箱の全体を両手で押し潰した後に、少し薄くなったそれを両手のひらで挟んで擦り合わせるといった動きを始めた。この謎の行為を丁寧に隅から隅まで繰り返していくと次第に黒く変色し始め、延びて大きくなり、数分で完全に巨大な黒い板となっていた。こうして拵えた4枚の板はとても軽くて薄く、しなやかに曲がるので、学生の時に使っていた下敷きを彷彿とさせた。ひんやりとしており、どのように曲げても折り目がついたり折れたりせず丈夫であった。一頻り板を弄んだ後、それらを組み合わせて予め完成させていた機械の上に置いた。接着剤などを使ってもいないのにぴたりと本体に吸い付き、機械は「ほぼ」完全体となった。先程の怪しい空箱を両手で持ち上げて素早く畳むと、先程とは違って謎の行為をせずそのまま機械にそれを押し当てた。その状態でなぜか上から下までゆっくりと眺めた後、視線を手元に移すと先程まであったあのダンボールは消えており、代わりに前面の全体が目の細かい金網のようなもので覆われていた。手のひらを見ると、格子状の痕がうっすらとついていた。それを視認した途端、目の前が一瞬だけ暗転して意識が現実へと戻ってきた。
おかしな出来事に次々と襲われた私は疲弊していた。脳内には未だに状況を飲み込めていない自分と「これは紛れもない事実なのだ」と現状を自然に受け入れている自分がいた。後者の自分の機械か人工知能のように冷静で受動的なその態度に不快感を覚える。しかし、それを凌駕する疲労感に身体を支配された私は窓際に身を横たえ、何度目かの気絶を迎えた。
翌日。直射日光とやけに暖もりのある床で意識を取り戻す。 部屋がサウナのような熱気に包まれており、呼吸をする度に体温と気温が同じになっていくような気がした。今日は近年稀に見る猛暑らしい。咄嗟にテレビとスマホの電源を入れると、どちらも起動したため安堵した。もう真昼間だった。エアコンの温度を限界まで下げ、通販番組を聞き流しながらスマホで情報収集をすることにした。どうやらあの巨大な直方体は「スーパーコンピュータ、通称スパコン」と呼ばれる機械であり、とてつもない速度で複雑な計算ができる素晴らしい先端技術を搭載している。その代償として膨大なエネルギーを消費し凄まじい熱を発する。科学技術の発展に必要不可欠である。概ねこのような知識を得た。あの熱気は直方体改めスパコンから発生していたとわかったため、とりあえず電源を切ろうと試みる。と、同時に強烈な違和感を覚えた。ソレに電源など入れた覚えがないのだ。組み立てていた時は無心であったため、どこに何の機能や部品があるかは全く覚えていないし、スイッチを押したりコンセントを挿したりする前に意識が様々なところへ飛ばされていた。気絶の最中に起動したものと考えるのが自然だろうが、いつから動き続けているのかが全くもってわからない。蝉の声が部屋の壁を貫通し、エアコンとスパコンと私の喉が唸った。だが、どんなに思考を巡らせようが無駄であることはわかり切っていた。
8月28日。私の部屋に押し込められたスパコンは、相も変わらず高熱にうなされながら働き続けている。エアコンからは子犬が鼻を鳴らす音のような異音が鳴っている。私は、何かに操られるようにしてエアコンの電源を切りカーテンを開いた。西日のさした「モダン・マンション」の壁が脳裏に焼き付き、オレンジがかった青空がきつく映える。目が眩んだのと同時に窓の鍵に指先が吸い寄せられた。何かによって反射を起こすことは許されなかったが、指先にきつい熱と痛みが広がった。そのまま窓を開けば部屋の中に一気に熱風が入り込んできて━━━ということは無かった。なぜか代わりに素晴らしい涼風が部屋に入り込んできたのだ。あぁ、これは「夕涼み」だ。私がそう確信した途端、スパコンの電源が切れた。刹那、目の前が急に真っ暗になった。