黄色い箱のキャラメルが、甘いだけじゃない私だけの理由。
私が幼かった五十数年前、アメ横近くの上野の町は、まだまだ戦後に片足を突っ込んでいたように思う。
けしてゆとりのある暮らしというわけではなかったが、テレビはカラーだったし、和式でこそあったけれど、トイレは水洗だった。
しかし町には、段ボール満載のリアカーを引いた、ルンペンと呼ばれる人がいたし、片足のない軍服姿の人が、地べたに座って空き缶を置き、ひたすらハーモニカを吹いているのを見た記憶もある。
母に手を引かれてスーパーに行く途中に、靴みがきのおじさんがいた。
国鉄の線路が走る高架下に、敷物と古びた座布団を敷いて座り、左右には靴みがきや修理の道具が所狭しと置かれている。頭に年季の入ったハンチングをかぶり、顔は日焼けで真っ黒だった。
おじさんの前を通るたび、私は「こんにちはー!」とあいさつをする。
知っている人にはあいさつをしなさいと言われていたからだし、毎日顔を見るおじさんは立派な「知っている人」だったから。
母がおじさんに、靴みがきや修理を出していた記憶はない。
しかし、おじさんは、あいさつする私にニコニコしながら「はい、こんにちは」と返してくれ、時々「おやつにお食べね」と黄色い小さな箱を手渡してくれた。
キャラメルだった。
先を切り落とした軍手と、そこからのぞく指先は、靴墨で黒く染まっていたけれど、黄色い箱はキレイだった。
もらったキャラメルはいつも開封済みで、決まっていくつか欠けた状態だった。そして母と祖母は声を揃えて言うのだった。
「捨てなさい。どこかで拾ったものかもしれないよ。また買ってあげるから」と。
「食べ物は粗末にしちゃいけないんじゃないの?」
と問う間もなく、黄色い箱は私の手元から取り上げられ、翌日には新しい箱が渡される。幼心にも申し訳ない気持ちがあり、そんな日は、いつもより大きな声であいさつをしたものだった。
あいさつを交わすだけのおじさんが、どこに住んでいるのか、家族はいるのか、どういう経緯で、靴みがきをしているのか、幼い私には知る由もなかった。
そしてある時、おじさんは、いつもの場所にいなかった。翌日はいたけれど、また何日かいない。そんなことが続いて、そのうちに全く会えなくなってしまった。
月日が経って、今は思うのだ。あれは、おじさんが、自分の楽しみに買っていたおやつだったのではないか。甘い物が好きで、一粒一粒大切に食べていたものを、毎日あいさつしてくる女の子にくれていたのではないか。
私も母となり、捨てなさいと言った母と祖母の言い分もわかるようになった。
あの頃と変わらぬ黄色い箱のキャラメルには、甘く香ばしい味の奥に、私だけが感じる、ほんの少しのしょっぱさがひそんでいる。
**2015年7月の森永の公募に応募したものに加筆しています。
まあ、ボツだったってことですW
たった半世紀前とは思えない戦後感ですね。
でもホントなんですよ^^;