2010年の秋 伊集院静氏について書いていたこと
東京への出張のお伴として、久々に伊集院静氏の本を一冊持って行った。
『ねむりねこ』という可愛いタイトルの付いた文庫のエッセイ集で、一度読んではいるのだが、あらためて読み返してみたいと本棚から抜き出し、カバンに入れたのだ。
文章も音楽も、絵画も写真も、時にはニンゲンも含めて、その時のさまざまな環境によって感じ方が異なるものだ。『ねむりねこ』というタイトルから内容を連想できないでいるこの文庫本一冊でも、ひょっとして新鮮な何かをもたらしてくれるかも知れない。それほどテンションを高くしてというほどでもないが、とにかく少し楽しみながら読もうと思っていた。
伊集院氏はボクの好きな作家のひとりである。そして、これが重要なのだが、もうひとつ不思議な存在の作家でもあり、そのニュアンスには〝怖い〟という意味合いも隠れている。それは伊集院氏が立教大学の硬式野球部に籍を置いていたという事実に、ボクが勝手にかなりのプレッシャーを感じていることから始まっている。
本当は美術系の道に進みたかったらしいが、東京6大学野球の名門、立教大学体育会硬式野球部に一度籍を置き、(その後あれこれあって)作家になったという、そのプロセスにある意味の怖さを感じているのだ。そして、好きだというのはその裏返し(本当は表側だが)みたいなもので、どこでどうなってあんな美しい文章、あるいは物語を書いているのか…と、考えてしまうのが不思議でもあり、嬉しいのでもある。
そのあたりを薄々でもいいから感じ取っていないと、伊集院氏の本質は見抜けないのではないか?
ボクはずうっとそう思ってきた。夏目雅子の前の夫で今は篠ひろ子の夫だとか、「ギンギラギン……」の作詞者だとか、そんなことで伊集院氏を語っていては狭小で軽薄な話で終わってしまう。
伊集院氏は野球をやめることになった要因として、自分の偏屈?な考え方を上げ、野球をやめた後の挫折感が、その後の生き方に〝よくないこと〟をもたらしたと書いていたと思う。伊集院氏の言葉を借りれば、〝裏切り〟や〝卑屈〟〝家庭崩壊〟〝酔いどれ〟などの表現がそれだ。
もともと恵まれた境遇があったにも関わらず、そこから抜け出そうとし、それなりの成功は手に入れたのだろうが、それが本当の喜びではなかった。そんなことを勝手に推測したりする。
そんなモヤモヤとしたものが、『ねむりねこ』を読んでいくうちに、少し分かってきたような気になってきた。やはり、寂しいんだろうなあ……と、自分自身の胸にも手を当ててみたりする。
『手の中の重み』という短いエッセイの中に、大学時代、野球をやめたいきさつが簡単に書かれている。少年野球の頃から変化球を投げ続けてきたツケが、肘に異状をもたらしボールが異様に重く感じるようになった。それは致命的な傷となり、その3ヶ月後に野球部を退部する。しかし、この時マネージャーとしてでもいいから野球部に残るべきだったと悔やんでもいる。
その悔いを忘れず、伊集院氏は、20年後野球を素材にした小説『受け月』で直木賞を取った。
もし大学時代野球を続けていられたら、伊集院氏の人生は変わっていただろうことは間違いない。「伊集院静」という女性みたいな名前自体も存在していなかったかも知れない(実はこの名前にも面白いエピソードがある)。
『手の中の重み』を読みながら、そうならなかったことが良かったのかどうか…と、無駄なことを考えたりもした。
本の話に移りたい。
『一瞬の夢 揚子江』という短編では、泥酔したまま揚子江を下る船に乗り込み、深夜に目覚めた時の妄想?が綴られている。旅を日常にしているような、伊集院さんにとっての旅に対する思いが見え隠れする。
簡単な内容ではないが、旅の中に身を置く自分がその中で体験する自身への問いかけや、それぞれの土地がもたらす懐かしさや安らぎなどをとおして、旅を求める思いのようなものを探ろうとしている。美しいと感じるものや、懐かしいと思うものに憧れる人の心情が、旅に結び付いているということなのだろう。
そして、揚子江の上を船で滑りながら、背後に去っていく風景のような〝一瞬のはかない時間(とき)の流れ〟を伊集院氏は書いている。
水の音、風の音、木々の揺れる音、砂が流れる音、それらは詩であり、〝その詩は人が誕生する以前から、土地土地で言葉を紡ぎ、美しい旋律を奏でているのではないだろうか。〟と言う。
時間(とき)の過ぎゆく早さと、その背景にある自然などの永遠なものとの矛盾がもどかしく、時間(とき)の流れを忘れようとし、自然などの永遠性に憧れる……のだろうか。
読みながら、自分も妄想の中に誘い込まれ、ボーっとしてくる。
『ねむりねこ』は、決してそんなにむずかしい本ではない。深刻になる必要もない。後半では、親交の厚い松井秀喜選手の話などが出てきたりして、野球人・伊集院静の血が騒ぐ様子が感じ取れたりする。ボク自身も松井選手に関する仕事にずっと携わっていて、両者の齢の離れた兄弟のような関係はよく知っていた。
伊集院氏は女性を主人公にした小説を書いたり、花についても詳しかったりする。野球に関わる小説も多いが、もちろん単なるスポーツものではない。野球はさりげないが、しっかりとしたストーリーの軸や背景にあったりする。そして、どこかに影がある、やさしい女性が登場する。子供向けにも書く。いや、子供を主人公にして大人たちに読ませるのかも知れない。やさしく力を抜いた物語の展開、表現の細やかさなど、女子大生が涙するというくらいに、その表現は美しい。そして、なんと言っても〝日本的〟だ。
『ねむりねこ』は、特急電車と新幹線の中と、アメ横の居酒屋と、神田のジャズの店と、その近くのホテルのベッドの上と、地下鉄の車内と、八重洲のカフェで完読した。
何となく別な意味で大人になった気分(非日常の)……で読み切った。
やはり、伊集院氏は理解されにくい部類の人なのだろうと思っている。
かつて渡辺淳一と同じように見ている男がいて、寂しいニンゲンだと心の中で烈しく蔑視したことを思い出した。
そんなわけで、ボクは伊集院さんが怖くて、でも、やはり好きなのだ………