本、本、とにかく本が好き!(パラドクス自己解説・その6)
ゲーム製作にあたっては、数々の文学作品から得たビジョンやイメージが大きく影響している。
今回はそうしたイメージの元となった文学作品を紹介したい。
『パラドクス研究部の解けない謎のナゾとき』の物語は、春から始まる。
春は温かく希望にあふれる素晴らしい季節であるが、僕の頭の中には、これを逆転的にとらえたエリオットの詩があった。
「記憶と欲望を混ぜ合わせ」というフレーズも大好きなものであり、第六パラドクスの冒頭、部室でレミがユウに言う言葉はこれを意識している。
最初の小噺は矛盾の話である。
矛盾は言葉の理論が崩壊した状態であるが、しかしこれが我々の生きていく原動力でもある。
自分でP(Proposition(命題))と言っておきながら、いきなりそれを否定してくるこの奇妙な文章は、人間の不可思議さの本質を突いている。
自己言及はパラドクスの王道であり、物語を駆動させるエンジンである。
こうした矛盾を抱えたまま、我々は始めるしかない。
信じられなかろうが、疑いがあろうが、闇の中を手探りで進んでいくしかない。誰か他の人に、自分の想いが届くかもしれないという期待を持ちながら。
その寒々とした、しかし静謐な厳粛さも持つビジョンを与えてくれたのが、ベケットである。
こうして物語は始まる。
パラドクスの元ネタは数理系のものが多い。
数学の歴史は基本的に発展的な輝かしいものであり、数学者ヒルベルトはこう高らかに宣言した。
しかし、後にゲーデルの不完全性定理によって、これは打ち砕かれる。
確固たる理論によって成立すると思われた数学の世界には、深淵が口を開けていたのだ。
ゲーム中、コーヒーブレイクの章においてレミが自販機の前で語ること、また、第六パラドクスにおいてカサコが美術室で語る言葉は、これを意識している。
いずれも、第零パラドクスにおける破局を暗示するものである。
そして、そこに至るまでにも、様々な苦難が待ち受ける。
ただもがき、進んでいくしかない。
第五パラドクスで意識していたのは、次の二つの和歌である。
なお、式子内親王のこの和歌は、須永朝彦の『就眠儀式』のエピグラフに掲げられたものであり、僕はそこでこれを知った。
そして物語のキーとなる第零パラドクスの転換点では、以下の2つを意識していた。
『虚無への供物』で有名な中井英夫であるが、僕はこの『とらんぷ譚』の方が好きだ。
『豊饒の海』は最終巻である第四巻『天人五衰』において異様な展開をみせる。
こうした絶対性の崩壊に不完全性定理を絡ませて描いたのが第零パラドクス(の前半部分)である。
第零パラドクスの後半部分では、キャラたちがそれぞれ語り合う。お互いを理解するために。徹底的に理解するためには、徹底的に相手の魂に迫らなければならない。
ユウイチの望んだ絶対性は存在しなかった。
レミもカサコも神ではない。
ユウイチはそれを呪う心情を吐き出す。この呪詛は次の言葉を意識している。
が、ゲームにおいては死が訪れることはなく、お喋りは続く。生きている限り、我々はこうしてお喋りを続けるしかない。
お喋り(そしてその裏返しの沈黙)は、ベケットのキーワードでもある。
こうして第零パラドクスの話が終わる。
ユウイチは虚無にとらわれるが、生きている限りは、とにかく生きていかなければならない。
が、第七パラドクスの死が彼らに襲い掛かる。
動揺するユウイチと異なり、レミとカサコは覚悟を決めている。
なお、念のため補足するが、ここで言う死とは創作上の概念のものであり、現実の死を肯定的にとらえるものではない。生きている限り、人は生きていくべきである。
春日井建の短歌も、重い病を患う友人を意識した精一杯の強がりの心情表現と考える。
その後、カサコが花の話をするが、これは千利休を意識している。
なお、岡倉覚三は岡倉天心の本名。また、この本は元々『THE BOOK OF TEA』として英語で書かれたものなので、著者とは別に訳者が存在する。
こうして春から始まった物語は、春で終わる。
以上、主要なイメージの元になった文学作品を紹介したが、細かい小ネタも含めると、他にも多くのものを意識している。
そうしたものについても、いずれ自己解説をしたい。
(パラドクス自己解説・その6/了)