文章の書き方①
期末という事もあって、仕事も演劇も死ぬほど書類を書きまくっています。
一応本分は「作家」だと思っているので、文章を書くのは得意…と思われたら大間違い。台本と公的な文章とはフォーマットが違うので、負荷もロジックも異なるのです。
職場の人たちは、僕が脚本書いていることを知っている人もいるので、年がら年中こんな言葉を投げかけられます。
「脚本は書けるのに報告書は書けないんだね」
「脚本は書けるのに報告書は書けないんだね」
「脚本はかけるのに報告書は書けないんだね」
ショックを受けたので三回繰り返してみました。
そうですよ。台本書けるからって文章がうまいとは限らないのですよ。
以前、司法書士の方から
・小説や台本は「感情が入っている文章」
・公的文書は「感情が一切入っていない文章」
という事を指摘されてなるほどと思ったものです。
そりゃそうだ。例えば値上の申請とかで
「昨今の市場状況による弊社の不採算を解消する為、価格の改訂をお願いしたく」
となるものを
「最近何でもかんでも高くて、うちもお金ないもんで、値上げお願いしますよ」
なんて書けないよね。
報告書だって
「工場の5Sは徹底されており、職員の導線も効率的なレイアウトになっていた」
というところを
「チリ一つないピカピカな床と磨きたての工具。僕の部屋の様子を思い出して恥ずかしくなるくらいだ。ちょっとメタボな職員さんも難なく異動で来ている。毎朝辺りに散らばった洗濯物をかき分けて出社していたとしても、そんな事微塵も感じさせない」
…長いな。
技術文書や論文は特に、結果が先にあってなぜその結論に至ったかという説明の見出しのみが並んでいる。出来るだけシンプルに仕上げるのが大前提です。
でもね、いわゆる会社なんかでの報告書になるとまた別の話で、
・結果を伝える
・経緯を伝える。
・出来るだけシンプルにする。
・上司の好み←これがくせ者。
人によっては、偉い人ほど時間が無いからシンプルにサッと読めるようにと言われることもあれば、より詳細を詳しく書けと言われることもあるわけで、特にこの好みの部分で査読者から突っ返されるとだんだん何が正解だかわからなくなりがちです。
なので最近は、表紙は目次みたいなものだととらえてツリー状に書いていこうと心がけているわけですが、かたや台本になるとこれは通用しないわけで。頭の中はいつも大混乱です。
その台本の書き方にも千差万別あって、どれが正解というわけでもないです。
作家さんや劇団のカラーに左右されるだろうし、受け取り手がどの情報にフォーカスしたいかで変わってきます。
例えば…周囲の作家さん劇団さん毎のカラーで言うと、こんな違いがあります。
あ、これはあくまでも僕個人の印象なので、実際どうなのかは直接観たりして確認してください。不快に思われたらごめんなさいね。全く悪意はありませんので(忖度)。
「空腹だからパンが食べたい」というフレーズに対して
狐野流
「腹へった。パン食べたい」
うん、ふつう
「おなかすいたあ。ぱんちょうだい」
はい、大変頭の悪い文章になりましたね。
某作家A
「腹が減る…それは生物の極めて原始的な本能であり、その終わる事の無い欲望を理性によって制御するという能力を得た我々は、たとえ一切れのパンでさえ命の連鎖に組み込まれた生存へのプロトコルであると知りながら、空腹を満たすという一時的な快楽を享受する。他の命を貪りながら生きていくという葛藤を抱え、この毎夜訪れる欲求に打ち勝つことが出来ない己を恥じながらパンに噛り付き、空しい敗北の味を知るのだ」
とても情景的ですね。めちゃくちゃ尊大なことしてそう。
某作家B
「ジャムよりバターだよね」
「え?」
「ジャムよりバターだよね」
「ジャムが良いです」
「ジャムよりバターだよね」
「イチゴのが良いです」
「ブルーベリーじゃダメなの」
「バターじゃなくていいんですか?」
「それバターじゃないじゃん。マーガリンじゃん」
輪郭から攻めるのですね。
以上、僕の偏見による仮定の文章なので追及はしないように…
何で急にこんな事書き始めたかと言いますと、これから今年も台本を幾つか執筆するのですが、書き方を忘れちゃったんですよ。
で、せっかくなので頭の中の整理も含めて、思いついたことはどんどん吐き出していこうというふうに思いまして。口頭にしちゃうと愚痴っぽくなったら嫌だし、文章のリハビリにもならないから。という事でこんな取り留めもない(そしてまとまりもない)記事がちょっと続くかも…まあここは私の雑記録なので確証はありません。
あ、論理的文章では最後のセクションをアブストラクト(序論)としてトップに持ってくるべきですね。文章って奥が深い。
さて、次の記事ではこの文章を書くきっかけになったかもしれない、森博嗣さんの話でもしようかしら。
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