悲劇の一つや二つ、誰にでもあるだろう
不運な生まれや境遇を「悲劇」として語り、同情を買う人をちらほら見る。確かに僕も簡単にかわいそうと思ってしまう。ついつい感情移入してしまう。気持ちはわかる…。
だけど、同時に「こいつ自分に酔ってるな」って思う。
本当にその過去を気にしている人はそれをむやみに語らない、というか語れない。その人にとって、それはあまりにも重すぎるから。語ることで自分が傷つくのが怖いから。
僕は悲劇を語らない。いじめられた過去や、親に他人と言われた事もあるけれど、それを「悲劇」としては語らない。当時は痛かった、辛かった、苦しかった。それはゆるぎない事実。
でも、僕はそこから得たものもある事を知ってる。
いじめられたからこそ今の僕は多様性を重要視している。親からの拒絶があったからこそ無償の愛の偉大さを理解している。
自分の過去を悲劇だなんて思いたくない。
そこから学んだものも絶対にある。「今」は「過去」の積み重ねでできてる。過去の否定は現在の否定にもなってしまう。それではあまりにも自分自身が辛すぎる。
僕は今幸せ。その幸せは過去があったから。あらゆる経験があったからこそ今の僕はいる。
確かに今の不幸は確かに悲劇のせいかもしれない。でもそれなら今の幸運だって悲劇のおかげかもしれない可能性も十分ある。
僕は自分が不幸な時にだけ、悲劇の彼女になるような真似はしたくない
都合よく悲劇をかたる人にはなりたくない
これは僕の決意
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