いい人を演じる代償¦どこまで素の自分が世間に許されるのか
自惚れかもしれませんが、
たまに「優しいね」とか「可愛いね」とか
褒めてくれることに有難みを感じつつも、
「それは私の本質ではない」と考えて
素直に喜べないことがあります。
捻くれていますねぇー。
今回は、そんなことを思ってしまう
私の葛藤を書きました。
私は、あまり関係の深くない人に関しては、
コミュニケーションに差し支えの無いように
その場の空気と相手の表情を見ながら
頭を使って考えて精一杯気を使って、
自分は笑顔でいるように口角を上げて、
相手の笑顔も気にしながら会話をして
よく見せている。
その方が私にとって、人間関係を築く上で
都合がいいと思っていたから、
そうしていました。
本音を隠して、都合のいい人間を演じる。
いい人になりたかったし、
いい人だと思われたかった。
そういう下心もありました。
でも気づきました。
そんなのは、後から疲れるだけだって。
本当の自分は、気を抜いたら尖ったことを話し
配慮のない余計なことを口走る癖に、
完璧主義であるから後で後悔して、
情緒が不安定になる。
性格が悪い。
自分のことしか考えていない時もあるし、
そんな時間が好きだとも思ってしまう。
いい人でありたかったが、
いい人を演じることに疲れて、
みんなにいい顔をしすぎて、
気を使いすぎて、続かない。
時々一人の殻に閉じこもりたくなる。
真顔になってただ一点を見つめたくなる。
急に何もかも、面倒くさくなることもある。
だから、精一杯頑張っていた演じる自分を
褒められても、あまり嬉しくなかった。
全く嬉しくないわけではないが、
これ以上は、頑張れないと絶望して
勝手に辛くなってしまう。
その言葉を重く感じて、縛られてしまう。
そんなの、自分で自分の首を絞めて、
本末転倒じゃないか。
気遣いを作り、空気を読み合う
大人の世界とは、
本音と建前なんて面倒です。
自分を演じる自分に酔って、
上手いことコミュニケーションしていると
思い込んで、何をしてるんでしょうか。
自然な姿でいい。
コンプレックスや理想はあれど、
社交性や気遣いは必要だけれど、限度はある。
でも、
どこまで素の自分が世間に許されるのか、
私はまだ、分からない。
素の自分を否定されることが怖いが、
意外とその失敗や後悔が成長に繋がるのではないか、そんな気もする。
自分を認めるというのは、
何と難しいことでしょうか。
理想とのギャップに苦悩し、
現実から目を逸らさずに足掻き、
葛藤しながら、前に進むしかない。
思い通りにならない自分が嫌いでも、
生きなければならない。
自分のキャパと向き合って
どうにか今日も、私は生きていた。
Ps.
もし褒めてくれる人がいなら、
素直に喜び心から感謝のできる
人間になりたい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?