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集団が起こす事故の責任とは一体何か、を問う契機となる梨泰院圧死事故

2022年10月29日深夜に起きた梨泰院(イテウォン)のハロウィン・イブ圧死事故。韓国で起きた事故だから殊更に言うのではない。このようなことはどこでも起きるだろうし、現に日本でも過去に起きている。「原因と結果」という、ある事象に関する生起の仕方の単純な見極めと、社会的人間たちの好きな、いわゆる「責任問題」という人類社会に特有の「犯人探し」や「責任者探し」との間の齟齬に、ある種の不快な既視感を覚えるから書くのである。

梨泰院事故が起きてすぐにテレビ放映で説明されたのが、道を狭くしている建築基準法的に違法な増築のことや、すでに1年前から指摘されている道路側の違法な店の拡張など、「事故の犯人」と目されるいくつかの人間特有の愚劣な行ないが、事故直後からテレビ局が取り上げる事態となっている。また現場の人流のコントロールをすべき警察が事態を把握していなかったこと、彼らの不在についての非難など、「誰かのせい」にする口実に事欠かない。しかし、賭けてもいいが、あの道がもし違法な拡張によって狭まられることがなかったとしても、あの事故はやはり起こったであろう。つまり道を狭くしたホテル経営者にも道路側に店を拡張した店長にも、事故の直接の責任はないのである。それらは事態をより深刻な状態にした要素ではあろうが、それ以上のものではない。

このようなことを臆面もなく書くと、中央の当局を責めたい人間たちによって、総スカンを喰らいそうだが、敢えて皆が無視していることを自分の備忘録的に残しておこうと思う。

「人々の上に人々が折り重なって下の人々が死ぬ」事態で起きていることは、死ぬ人間の上に折り重なる人間たちの存在がある。圧死の直接の原因は死んだ人間の上に倒れ掛かった人間の存在がある。そして倒れ掛かった人々の存在のさらに後には、その人々を後から押した人々の存在がある。そして押した人々は自分たちの生存空間を確保するために、その先で何が起きているのかについて考えることなく、ただ単に自分たちの日常的な生存空間の確保のために、「押しただけ」であった。そしてどうして「押した」のかと言えば、あまりにも多い人間の流入があったからだ。

だが、この押し合う混雑した人流の中でも、死なずに生き延びた人々がいる。その死ななかった人々が死んだ人々を潰したのである。誰が潰したのか、という感情論や主観抜きの物理現象だけを見てみると、潰した人間と潰された人間という2グループがあって、生き残った人間は、潰した側の人間のグループに属し、死んだ人間は潰された側の人間のグループに属するのである。

あの狭い坂道には地下鉄の出口から梨泰院のメイン通りに向かいたい、到着したばかりの一塊りの人間がおり、また地下鉄の入り口の方へと梨泰院から帰るために向かう一群の人々がいた。あのボトルネックのように狭い通路(しかも傾斜がある)に、上と下から同時に流れ込む人流が発生したわけである。その上下の相対する人流の間に挟まれて潰されて死んだ人間は、誰によって殺されたのか、と言えば、上と下から流れ込んだ人間たちによって、である。そこにいなかった警察が殺したわけでもなく、そこにいなかった違法建築をした店の経営者が殺したわけでもない。殺したのはその時間にそこにいた人々なのである。このことは一旦、最も単純な物理的現象の確認として書いておく必要がある。

事故の起きたその時間にその場にいて、命からがら助かった人間で、まるで自分たちが殺していないかのように、怪我をした被害者のひとりのように語る人々は、圧死した人々を殺すための「体重」の一人ではなかったのか? そのような極めて単純な視点というものは、一旦我々は認知するべきではなかろうか?

太平洋戦争中の日本人の大半は、戦争に加担していなかったつもりかもしれないが、彼らは戦争が起きていく様々な過程でそれを止める努力をしたわけでもなく(したとしても止めるに十分でなく)、それでいて戦争の現場に居合わせて巻き込まれただけの被害者、のようなツラをしている。だが、その時代に居合わせた人間は多かれ少なかれ、戦争の生起に加担したか、直接加担しなかったとしても、それが起きつつある事態を黙認した人々であった。彼らは「被害者」であるのかもしれないが、少なくとも加害者たちの、あらゆる悲劇につながる行為を黙認した連中なのであって、その場に居合わせてその被害を最小限のものにすることに失敗した人々なのであった。

梨泰院の事故は、その事態が起きるかもしれないことを予見し、人流制御の人員を配置しなかった警察が責められる事態になっているが、彼らを責めて吊るし上げて終わりにしても、そのような責任追及は同じような事態が起こることを防ぐ、いかなる工夫にも通じない方向性である。それは日華事変の責任を軍部に押し付けて、素知らぬ顔をする大多数の日本人であって、戦争責任を負おうとしない「普通の人々」となんら変わらない。

あの事故が起きた原因は、あの場所に向かったひとりひとりにある。

笑い話のような話だが、混んだ観光地に「なんでこんなに混んでるの!」という不満を表明することがあるが、混んでいる原因のひとつはそれを言った本人自身である。「なんでこんなに混んでいるのか」と思っているひとりひとりがその混んだ状況を作り出しているのである。つまり、混雑の原因は、どう考えてもそこに向かった人々ひとりひとりにあるのだ。そして、混雑がこのような悲惨な事故を引き起こしたのであれば、混雑による事故の原因はそこに向かった人々ひとりひとりが作り出した、という因果関係の認知と評価は、決して間違っていないであろう。

だが、狭い場所に人々が集中して流れ込むという事態が引き起こすかもしれない結末について、ひとりひとりにもう少し豊かな想像力があったなら、回避できたかもしれない。その想像力の欠如が事故を引き起こしたのであれば、愛でたくも、その狭い地区に大挙して押し寄せても大丈夫だと考えた訪問者のひとりひとりに、その想像力が欠けていたからだ、と言うことも可能であろう。

いわゆる中央の当局のせいにしたい連中は、自分自身がこのような戦争的な事態の責を負うべき本人であると認知しない点で、また同じ過ちを犯す人々の一群に連なるのである。この事態は玄界灘の向こうで起こった対岸の火事ではなく、此岸で起こりつつある「無責任の島国」(卑怯者の天国)でこそ、自省するための材料となる事案なのである。

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