
卓上から『オペラ座の怪人』を語る|エリック中毒の人生
7歳のころからエリックという人物に心を奪われてきた。彼は音楽の天才でありながら建築家やデザイナー、呪術師でもある。悲しい運命を背負ったエリックの存在は、幼い私に強烈なインパクトを与えた。
エリックとは『オペラ座の怪人』に出てくるファントムだ。1910年にフランスの推理小説家ガストン・ルルーによって発表された物語の主人公。私が『オペラ座の怪人』を初めて目にしたのは劇団四季のミュージカルだった。
小学生になると、母が劇団四季のミュージカルに連れて行ってくれるようになった。母は服飾デザインが専門で、学生時代から劇団四季の衣装に携わっていた経緯があり、子供たちにミュージカルを観せてあげたいと考えていたらしい。初めて観たのは『CATS』で、そのあとが『オペラ座の怪人』だった。
当時バレエを習っていたこともあり、バレエとミュージカルが頭の中の大半を占めていた。特に『オペラ座の怪人』への関心は段違いで、将来はファントムを演じるミュージカルスターになりたいという目標を掲げたほどである。両親から「クリスティーㇴではないの?」と言われても「ファントム!」と答えていた。
正直なところ、昔は物語の内容をよく理解してはいなかった。ただ、ファントムの恐ろしく悲しい姿を必死で捉えようとしていたことを覚えている。
駄々をこねて何度か観劇し、そのうち演じる役者によってファントムの印象が変わることにも気が付いた。手や目の動き、歩き方、歌の抑揚によってファントムの人物像が変わって見えた。これは当時の私にとって最高の”わくわく”だった。バレエの師に細かな表現をよく注意されていたので、自然にそういった点を観察する目が養われていたのだと思う。
それを”演技力”というよりも”解釈”ととらえるようになったのは最近のこと。2011年に開催された『オペラ座の怪人 25周年記念公演 in ロンドン』のDVDを観たことがきっかけだった。本編の素晴らしさはもちろんのこと、カーテンコールで歴代のファントムが一斉に歌う場面がとても興味深かった。人物像を構成するにあたってのヒエラルキーの順序は、役者によって異なるのではないかと感じたから。
ファントム自体を冷静にとらえると、自分勝手でストーカー気質、殺人も犯す危険人物なのだけど、演じる役者の解釈によって多彩な感情が生まれる面白さは、このミュージカルの観劇の肝だと私は考える。
その解釈には、エリックという人間のバックグラウンドがかかわってくるわけだが、原作を読むと闇のなかを孤独に生きてきた男の胸のうちを感じられるだろう。
ネタバレになるので書かないが、私が感じたことは、人間は誰しも喜びの感情のみでは生きていないということだ。彼の場合は特に、生まれ持った容姿を恐れられ、虐げられてきた。自分勝手でストーカー気質、殺人も犯す危険人物と先述したけれど、エリックは人をそのようにしか愛せなかったのだろうと想像できる。
その背景を知れば、人間の感情のなかでは”怪人”として恐れられるエリックを完全に否定できない可能性もある。彼の壮絶な過去を役者がどのように解釈したのか、私はその点が大変興味深いのだ。
物語のエンディングでは、クリスティーヌへの愛を抱えたままオペラ座を去るファントムだが、エリックとしてどのように人生を過ごしたのか、何を決意したのか、これは原作では結論が出ている。しかし、ミュージカルや映画などの二次創作では、あいまいな形で表現されている。私は観ていないけれど、アンドリュー・ロイド・ウェバー完全オリジナルの『ラブ・ネバー・ダイ』は賛否両論だったようだ。
結末をどうとらえるのかは個人の好みに左右されるだろうから、正しさを追求するつもりはない。個人的には、原作の結末を支持している。
はじめに述べたように、私はファントムを演じたいと思い続けてきた。ミュージカルスターにはなれなかったし、冷静に考えてもかなわぬ夢だけれど、夢を持ち続けることは自由だと思うから空想はやめない。私がファントムを演じるとしたら…と、いつも大まじめに考えている。
その材料集めにエリックを研究しているのと、舞台であるオペラ・ガルニエやオペラについても勉強している。数年ぶりにバレエも再開した。
このように十数年間続いていることが簡単に終わるはずもなく、夢がかなうまでずっとエリック中毒のまま過ごしそうなのだ。報われないようだけれど言い換えれば楽しみは続くということ。おそらく、このシリーズ自体も続くだろう…。
2023年3月10日(金) 円卓