雑記・(裏)はじめに


 『はじめに』という記事を迷いながら書いたことは当該記事の通りですが、その時僕が一体何に迷っていたかというと、それは「どのくらいカッコつけて書くか」ということでした。
 普段演奏していると、「ステージでは丸裸」と言いながら、僕たちはみんな「キメポーズ」や「必殺の音」を持っています。
 音楽の根本に勝負事の性質はありませんが、表現の土壌に心があれば、常に己との戦いになります。昨日の自分に勝つ、前回のステージを越える、そんなジャンプ漫画の主人公のような真っ直ぐなものを、演奏家はみんな持っています。たっかい学費を払って(もらって)免許も資格もない世界に放たれ、さらに聴くほうはあんまり興味がないから聴くための準備が整っていない。厳しい先人の言葉を借りるなら、素養が伴っていない。しかしそれは考えてみればやはり表現する側に戻ってくる問題であり、その只中にいる者にとっては、自分の生涯を賭して取り組んでいるクラシック音楽は、「二の次」にはなりません。だから寧ろその「真っ直ぐなもの」を持っていること、生涯における一日一日の時間が自分の目標にとって足りないと感じる、その辺りの目安を以って「プロフェッショナル足りえる」という線引きができるのかもしれません。少なくとも僕はそう思っています。
 また、僕自身は演奏家として決してメインストリームにいるわけではなく、重たく固い業界を動かしている優れた演奏家の姿を見て音を聴いて感銘を受けているほうのクチで、能動態でメインストリームに留まろうという作為的な意識も二十代のオーケストラ生活を経てだんだんと薄まっていきました。メインストリームとは一体何でしょうか。僕には、今の日本のクラシックの現場は、クリエイティブな場に各々が努めてしなければならない場所になっているように感じます。それはほとんどの演奏家が(僕自身も含めて)事実の上にではなく、己の感情の上に腰を下ろして家にこもって悶々と身勝手な逡巡を繰り返しているからではないかと思うのです。
 ちなみにまだそのことをそこまで分解できなかったその頃の僕は(確か長澤まさみさんが矢口史靖監督の名作『WOOD JOB〜神去なあなあ日常〜』に出ていて映画館に観にいった頃だから僕は二十七、八歳くらいだったはずだ)、お給料と若干の福利厚生っぽいものを得ながら、コツコツと積み立て、結婚して子どもができたらたぶん僕の妻になってくれるような人は同業かどちらにしても同じようなタイム感で働いている人だろうから、夫婦の役割分担にきっと頭を悩ませたりして、なんだか判らないうちに円熟のブラームスどころかウェルナーの教則本すらろくに弾けなくなっているのでは、と自分の中に非常に弱く雑魚い己を見つけて、怖くなり、家族旅行でいった父と修学旅行でいった担任と在籍していたオケのホルンの首席奏者(今もご在籍なさっています)から教えてもらった「清水の舞台から飛び降りる」心持ちで、事務局に退職(退団)を届け出ました。
 一奏者、としての自分を、ちゃんと考えることが自分には必要だと思いました。
 実家に戻り、なのに根無草のような生活が始まりました。その頃は両親も健在で、妹も犬二匹もいて、出戻りの僕が猫を二匹連れ帰ったものだから実家は満杯で、なぜお飾り程度の庭なぞ造って部屋をもっと大きくしておかなかったのか、と大黒柱の父までが嘆く惨状に見舞われるほどでした。
 平生、父と母は朝から仕事へ出かけ、妹もそれなりに早く出ます。僕だけ昼前に起きてゴミを出しにいくともう当番の近所のおばさんがゴミ置き場を箒で掃いていて、「あら、お兄ちゃん大阪から帰ってきたんでしょ?最近は何やってるの?」なんて聞かれて頭の中をひと通りぐるりとしてみると、オケのエキストラにいったり小学校の鑑賞教室で弾いたりコンサートを企画したりレッスンしたりしているけど、どれも少しずつやっともらえるようになってきた仕事ばかりで近所のおばさんに宣伝するにはこれと言った決め手に欠け、とりあえず能動的にやっていることと言えば、と引っ張り出したのが「バンドやってます」でした。手遅れだった両手のゴミ袋が余計に恥ずかしかった。近所のおばさんは「そう、凄いわね。頑張ってね」とちょっと引きつった顔でまた床に目を落として掃き掃除を始めました。あーあ。
 つまりこのようなかんじで、僕の自虐で笑いを取ったり、それを尤もらしく主題に繋げて展開させることもできるかもしれませんが、それではただ演奏仕事が少なくて暇な時間を漫然と持て余すばかりで音階練習もせず鼻息荒く筆を走らせている腐れエッセイと変わらない。そんなのは嫌だ。いや結局やっていることは同じだし、そこを区別する意味もあまりありませんが。ただ僕は、考えるのには、どうやらワーキングメモリー不足のため、具体的な緊張感が伴わなければなかなか身が入らない。だから勝手にやって、それが自分の価値を落とすことになっても、音の価値はもちろん変わりません。先生に怒られても、それならいっかと思ってやってます、と正直に言うつもりです。
 また、普段の鬱積した苦悩や逡巡を堆積させないためであり、鬱憤を晴らす場にしたいわけでもありません。批評めいたことも書いたりしますがそれはあくまで僕の私見であり、批判になってしまっていたら、それに対する批判は甘んじて受けるつもりでいます。その前に、そんなに多くの人には相手にされないのが大前提かもしれませんが。

 この演奏読本は、せっかく一生懸命に書いているのだから、できるだけたくさんの人に読んでほしいと思うし、今はまだ思いもよらない発展を遂げていってくれたりすると面白いなと思います。
 しかし、僕自身がこれによって言論の利を得たいとか、何かを誇示するような意図はありません。そういう克己心(承認欲求でしょうか)が抜けるまで、『はじめに』を書けるまで一丁前に時間がかかりました。
 書いたことの責任は取るつもりですが(億が一にでも何かそういうことがあれば)、あくまで自分のために、自分の思考が何かに触るために、書いていこうと思います。
 また、贅沢な志しを添えるなら、僕が卒業して間もない頃、自分自身についてあれこれ悩んでいる自分に不安を覚えることがありました。周りに、僕と状況の似ている友人、共通の恐怖を抱いている友人がいなかったことが理由かもしれません。しかし、友人たちは、そういう話すのも重たいことを話さないことで、友人たり得ていたのかもしれません。それが本物の「友人」なのかどうかは個々のご判断に委ねますが、反対に僕の友人たちも、他の誰かに自らの苦悩や不安をつらつら話す人はいません。常にそういう話をする相手や機会を狙われても、僕には受けとめてあげられませんから。それは何度も言うように、僕自身が自分のことに悩んでいるんだから、というのが今正直に思いつく理由です。
 ざっくりと「大人」でも、中堅くらいのプレイヤーでも、こうはなりたくない業界のゴミでも、何でも構いません。自己犠牲ではありません。僕は僕の書くことで自分を成り立たせるし、もしそれが、どういう形であれ何かの「反応」を生み、誰かの役に立てば。これはほんとうに、うっかりついてきた付録のようなつもりですが。

 成していない人間の語ることに力はありませんが、では、成しているとは、何のことですか?お金をたくさん稼いでいること?著名なこと?家族を養っていること?絶えず、諦めず呼吸していること?
 「音楽」という人生に絞った時、バッタバッタと志し半ばにして倒れていく(更生していく)同窓生や仲間たちの想いも背負って、ほんとうは転職した人のほうがよっぽどまともな暮らしをしていますが、とにかく、音楽という人生を肯定するためには続けるしかありません。
 僕はそのために、頭の作りが人よりちょっと不利なようなので、落ち着いて緊張感と節度をもって思考するために、それがあまりひどい妄想ばかりにならないように、それから何より音楽を続けていくために弾くことの反動に書くことを持っておきたいと思います。それがほんとうの、正直なねらいです。


2022.07.23 チェリスト・塚本慈和






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