雑記・勘違い


 昨年暮れに公開された映画『THE FIRST SLAMDUNK』を、高校時代の絵描きの友人と昨年内のうちに滑り込みで鑑賞しました。演奏とは関係ありませんが、『スラムダンク』は僕にとっても避けることのできないビッグタイトルです。高校からは音楽科に入学し(他に美術、映像、舞台の計四学科があり、先述の友人は美術科出身)、その流れのまま音楽大学に進学したので、具体的には中学時代だけということになりますが、僕は部活動というものやそれに纏わる上下左右のいざこざ、無闇な感動など、ほとんど体感したことがありません。だから『スラムダンク』のような物語によって語られる"学園生活"は、当然僕にとっては根底からファンタジーなんです。もう少し身に覚えのある、自分の実生活から繋がっている物語といえば『のだめカンタービレ』の前半くらいだったと思います。もちろん僕の身の回りは僕も含めて、あんな才覚の秀でた連中はほとんどいませんでしたが。
 それで、劇場で刮目した『THE FIRST SLAMDUNK』に、僕も友人も、実はがっかりしてしまいました。今さらネタバレもなにもないと思いますが、以降ネタバレを含みます。
 世の中の評価というと阿っているようですが、そうではなく、正しく誰に聞いても「面白かった!」と非常に抜けのいい笑顔が返ってくるこの映画、楽しめなかったのは僕に要因があることは明らかです。だからきっといちゃもんになってしまいますが、少し話をまとめておきたい。ほとんど自分のためです。

 僕はビジュアルアートの歴史や感覚にほとほと縁がないというか、一生懸命学ぼうとしてはいますが、なぜかこと画角というものに関しては自発的なセンサーがどうにもうまく感知してくれないみたいです。そのことによって聴覚の敏感さをアピールしたいわけではありません。聴覚もおそらく元々人並み程度しかありません。
 だから門外漢もいいところなんですが、僕は件の絵描きの友人のお陰で特に00〜10年代の多感な時期に、ビックバジェット映画だけではなく、本来だったらほとんど眠ってしまいそうなアートフィルムやドキュメンタリー映画に至るまで、ありとあらゆる映画を鑑賞しました。万が一取りこぼしをしてもその頃から審美眼の冴える友人の解説、解釈が補足してくれるので、僕は安心してその時の自分に自然と入ってくる場面と連関だけに集中することができました。もちろん気に入った作品は何度も見返したりもしました。クラシック音楽を演奏し、時に譜面を書くようにもなった僕は、ようやく彼と同形の"創作"という角度から映画を愉しむことができるようになってきました。言わずもがな、読み書きに自覚的になったことが、なにより背骨を太く逞しくしてくれましたが。
 僕と友人の専門性をちょうどいいところで結んでいるのが、いつも映画という芸術/娯楽でした。
 ここへきて、友人を仮にSとすることにしましょう。この先もまだまだ登場するからです。前に戻って文章を直したりはしません。面倒くさいからです。僕の「自覚」とは、こんなものです。
 風呂敷は敷き終えました。いよいよ、記録樹立真近との呼び声も高いあの名作『THE FIRST SLAMDUNK』についてとるにたらない僕たちの所見を述べようと思います。

 僕は鑑賞しているあいだ、宮城リョータが宮城リョータに視えない、という違和感に終始苛まれました。鑑賞後Sの車で帰宅しながら、そもそもSには試合シーンと回想シーンでそれぞれの人物が同一人物には視えなかったと白状してくれました。ただこれは根底にアニメーションの作画方法の差異があるため、同じ絵描きとしてそこだけ鬼の首を取ったように拘るのは野暮なポイントなのか、どこか申し訳なさそうな物言いでした。
 試合のシーンはファン待望の期待に応える、熱い場面の連続でした。あの件がない、あの台詞がない、は、それこそ野暮です。見事に魅せられてしまいました。
 ところがその試合シーンに心奪われて気持ちが追いかけ始めると、割り込むように回想シーンになり、沖縄に場面が移ります。「僕たちの『スラムダンク』に沖縄なんて気分はなかった!」なんて、これもまた野暮なことを言うつもりはありません。ただ、お話として僕は面白くなかった。あれなら過去に描かれた『ピアス』という読み切り作品で溜飲は下がっていました。
 "FIRST"だし、原作者がまた『スラムダンク』をやりたくなって、連載時には未開の地だった宮城リョータというキャラクターに活路を見出したのかもしれない。それはそれで素直に追いかけたい。そう思ってはいるんですが、ところどころどうにも呑み込み辛い作品でした。
「イノタケがアニメーション技術の到達をここまで待ってて、"今だ!"ってかんじはしたけどね」Sはくねくね蛇行する道に悪戦苦闘しながら、慎重に言葉を選んでいるようでした。
 僕も一つそういう技術的なことで気になったことを挙げると、僕のような画角オンチでもここまで高いクオリティでアニメーションを観ていると、ある程度空間の認識が及びます。そうすると例えばパスを出した音の位置とそのボールを受け取ってドリブルし始める位置が同じだったりすると、ちょっと変なひっかかりがありました。気持ち悪いとまでは言いませんが、「あれ」みたいな。
 そんないちゃもんはいいです。僕が一番困惑したのは、おそらく制作の意図としてはちょっとした補強のつもり、または現代版にアップデートしてより明瞭化した程度の修正部分だったのだと思います。だからそんな箇所をああだこうだと言うのも野暮です。僕はつくづく野暮ったいやつです。
 赤木剛憲というキャプテンがいます。彼は"身体がでかいだけ"のところから、今は遥か高み(赤木自身にとって、弱小高校の湘北バスケット部がインターハイ出場まで漕ぎ着けるなど、入部当初は夢のまた夢だった)に指先が届こうとしています。『THE FIRST SLAMDUNK』では『スラムダンク』の最後の試合、つまり湘北高校のインターハイ二戦目が主に描かれます。連載の終わりへ向け、敵味方一進一退の攻防を続け、背景には各々の選手の過去が描かれ、想いが上乗せされ、物語は最高潮の盛り上がりを見せます。僕にとってその軸、『スラムダンク』の物語の背骨は、この赤木剛憲というキャプテンの物語でした。
 湘北バスケットボール部に入部した頃の赤木はバスケが下手くそでした。先輩たちは「全国制覇」を合言葉に唱和こそしていましたが、それはその辺の部活動のノリとそう変わらない程度のものでした。ところが赤木は、心の底からその「全国制覇」を夢見ていました。真面目に基礎鍛錬を重ねました。期待のルーキーだった同級生の三井が去り、他の同期の部員も続々とやり甲斐のないバスケ部をあとにする中で、赤木だけが踏ん張り(あと木暮くんもだった)、物語の終盤、遂にほんとうのチームメイトを得ます。
 これまで赤木が周囲へかけてきた励ましの言葉を、チームメイトがそれぞれ赤木に向って鼓舞するようにかけてくれるシーンは、何度観ても(読んでも)落涙ものです。
 それまで赤木は真剣に努力しました。インターハイへ出場するために、試合に勝つために。しかし、それは赤木が二年生の頃までは、彼の孤独な戦いでした。
 ある時忘れ物をした赤木が教室に戻ると、隣の教室に何人かの男女の声が聞こえてきます。女子が「いかなくていいの?」と聞くと、男子が「いいのいいの、もうちょっとサボっていくから」みたいなことを言います。あくまで原作厨でもないので、ここで正確な引用はしません。声が聞こえた赤木は顔を真っ赤にして隣の教室に怒鳴り込みます。するとその男子部員はなんとも言い難そうに「お前とバスケすんの息苦しいんだよ」的なことを言います。
 この、なんとも言い難そうに、というのが僕にとって大切で、赤木の周囲の人間をあくまで"普通"という範疇に納めて描くことで、赤木の独りよがりな(でも物語としては圧倒的に正しい)推進力を、コテンパンに叩きのめします。実際、赤木はそのやりきれなさから、実質高校生活最後の試合中にそのことをまざまざと思い起こしています。
 芸術もスポーツも、個人でなにかに向き合って努めたり研鑽を積むようなことがある世界は、独り遊びと同じです。やがてバスケットの場合チームメイト、音楽の場合アンサンブルという形式で、やがて他の方法で登り詰めてきた人たちと合間見えることになります。僕は赤木ほど徹底した音大生ではありませんでしたが、幾ばくか思い当たるところもあります。だからこそ原作者自身の手によって(だと思うけど)、赤木の先輩衆にわざわざ嫌みっぽい新キャラクターを拵えられてしまうと、なんだか赤木がただ不憫なキャラクターになってしまって、つまり僕には『THE FIRST SLAMDUNK』全体が手からこぼれ落ちていってしまったような感覚で、要するにあんまり面白くありませんでした。

 これは僕の勘違い、と行き着くしかありません。僕も創ることがあるので、また創られたものを吟味検証し再構築することを専門に学んできたので、常に俯瞰している僕自身の感覚がそう答えを出しているのに素直に従いたいと思います。
 年末に実家で観たNHKの番組から、少し読書を進めている"神格化されたベートーヴェン"について。これも同じです。ある一定の世代から上の人たちに自然と植っているドイツ音楽至上主義、その根幹である神ベートーヴェン。
 東西冷戦時のドイツ内で、宇宙開発ヨロシク東と西を挙げてベートーヴェン解釈への熱い(だいぶヤバい)戦いがありました。簡単に言うと東はベートーヴェンを社会主義者としてイメージを再構築し、プロパガンダに掲げました。西にはカラヤンがいて、商業的にもレコードやコンサートで歴史的にも比類ない成功をおさめます。その熱き冷戦下の極寒戦の中、ベートーヴェンの新装版の楽譜や、スケッチの切れ端のような小さな作品に至るまで網羅した全集版レコードが発売されたりして、世界中へどんどん「クラシック=ベートーヴェン」というイメージが浸透していきました。
 もちろんベートーヴェンがちゃんとできなければ正統な演奏家とは呼べないかもしれませんが、日本では過度にベートーヴェンが重い十字架になっている人も少なくありません。ベートーヴェンにしかない輝きや憂鬱には僕も垂涎するほうですが、でもあんなスケール(音階)やアルペジオばっかりのモティーフがパズルみたいにガチャガチャしていて、時々もろ作為的な変テコなテコ入れみたいな仕掛けがしてあったり、馬鹿みたいっちゃあ馬鹿みたいなのに、その作品に真正面から向き合って心を蝕まれそうになりながら七転八倒してる人もいます。僕もある時期まではその一人でした。このねじれ現象。これも、僕の勘違いです。ベートーヴェンについては現代に至っても尚、世界中の多くの人たちがまだまだ陥っている勘違いがあるように思います。
 最近になって、庶民的で明るい性格だったベートーヴェン像が薄ぼんやりと視えてきました。僕が思っていた(教えられてきた)よりベートーヴェンはもっと身近な人やもののことを考えていたし、感じていました。
 その上で、例えば、僕が初めて好きになったベートーヴェンは孤独な運命に打ち勝った偶像そのものだったし、ベーレン新版の特に第九で修正された音符については未だに違和感があるぞ!とか、そういうふうに騒いだりしません。正直四楽章のホルンのシンコペーションは何度聴いても元のブライトコプフ版のほうが僕はよかったな、とはしばらく思っていましたが、気がつけば刷新されていました。そういうものなのに、『THE FIRST SLAMDUNK』はどうもうまくいきません。僕の頭がなにかに囚われて(たぶんふつうになんらかの感情)、落ち着いて内省できていないんだと思います。
 観てからもう三ヶ月くらい経ちますが、はてさて。まあ、もしかするとふつうに"老い"なんでしょうか。自分ではまだ判りません。



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