雑記・日本のクラシック音楽を(勝手に)考える
雑記① 日本のクラシック音楽を(勝手に)考える
音楽の場合、およそ三百年ほど前に西洋で超流行っていたらしいJ.S.Bach(1685〜1750)の時代に究極とされた音を追求するための痕跡は、現代に至ってもかなり具体的な形を保って遺っています。地図、設計図、青写真…分野によってさまざま呼称されますが、今回の場合は、西洋音楽によって確立されていった大発明、「楽譜」です。
楽譜と聞いて早速げんなりしてしまった人や、生没年が添えられていても浮かぶイメージへ特に何も補填がされないという人は、そもそも普段からあらゆることに既に不感症である可能性が高いとも言えます。小学生の頃、つまらない授業の合間に孤独な世界の時間を潰す唯一の手がかりになったのは、いつもそういう「添えられた情報」だったはずです。
才能という言葉をわざわざ用いる場面があるとしたら、それは古典へアプローチする(古典を吸収する)方法のこと。借り物の言葉ですが。
我々「演奏家」にとって最もクリエイティブな発想や作業を要求される時間が、この楽譜との対話の時間になります。
僕個人の話になると、いわゆるクラシック音楽作品の解析(アナリーゼなんて呼びますが)や解釈は故アーノンクールの著書『古楽とは何か』を皮切りに、当時斬新で意欲的だった考察をふんだんに吸収(拝借)し、今は左右にそれぞれ足をついて、なんとか中道に仁王立ちに踏ん張れているのではないのかと思っています。無垢な若者がもし読んでいてくれたらと思うとオジサンは怖くて、念のため断っておくと僕も文章や言葉に誤りがないように気をつけていますが、それ以前に、そもそも書き手の想定していない読み方をする人が現れるのが面白かったりするので、それも演奏と同じですが、やっぱり「反応」とは、表現する側にとってとても怖いものです。
実社会によるところのテクノロジーの日進月歩に合わせて日本発のYMOが世界を席巻している頃(もちろんそれはKRAFTWERKからの系譜ではありますが)、クラシック音楽業界にはレコードの存在を認めない演奏家や指揮者がいたり、レッスンでは「最近は正確に音を鳴らす機械があるのだからそんな音痴な演奏だと仕事盗られちゃうよ」とか脅されたりして、さらに現在ではそれはサブスクリプションの問題に及んで執拗に定義されています。レコードやCDとサブスクでは問題となる部分が違うので、一概に「同じような時代の変換期」などとは思いませんが、これはつまり、我々人間が、個人個人音楽とどのように接し(聴く、弾く、歌う)、音楽が生活の中にどんなふうにしてあるのかを表しています。しかし曲がりなりにもこうして長く演奏活動を続けてきてみると、それは原始人が火を怖がるのと同じ心理で、慣れてしまえば人は火を使うことはあっても、「機械に取って代わられる」ことはないということが当たり前のように判ってきます。反対に地上全てのものが全人類の協力のもと強く燃え盛っても、それでどんなに空が明るく燃えても、「朝がきた」こととはまるで違います。取って代わられない理由が、音楽とは人の不安定さが生み出す魅力が売りなのだから当然、などと思っていると、それはそれでまた大きく違ってしまっていますが。
日本クラシック音楽業界では(あえて自らが身を置いている狭い世界に限って考えてみれば)「外来」という言葉が、言葉の持つ意味合い以上の隔たりになります。あと数年もすれば、例えばミュンヘンコンクールのファイナリストに選出された類稀な若手のカルテットが、紫やピンク色の色とりどりの髪を幻想的になびかせてMozartの『春』を演奏することもあるだろうし、YouTuberのように開かれた対応能力や即興性を必ずしも養わなければならない時代に、実は段々近づいています。
肩書きはどうでもいいですが、「演奏一本」でこのまま技の匠のような状態になってしまうと、それはかなり危険なことです。
おそらく2122年頃になっても、スマホや電子端末を持たないチェリストや、わざわざ蓄音機で音楽を愉しむモノラル派のピアニストなど、偏屈者のいなくなるような弱い業界ではありませんが、現段階の「浦島太郎状態」でいては、同じ者同士だけで集まっているうちにどんどん血が濃くなるばかりです。少しは風を入れないと。
下から見上げるように拝見していて、今の日本のクラシック音楽業界、ひいては日本音楽業界、いやいや、日本のエンタメ業界そのものが、口ではそれらしいことを述べつつも(例えば、初めていったオケでよく「たくさん弾いてね」なんて声をかけてくれる人がいますが、そういう人はほんとうにたくさん弾くと大抵怒る。この「たくさん」も難しくて、仕事として十余年日々逡巡を繰り返している三十六歳の年男が、周りに迷惑になるほど「たくさん」弾いちゃうものなのかどうか、ご自身の就労経験から想像してみてほしいのですが)、パターン化した技法や技術から外れることを考える暇もなく、とにかく現場を回転させることに躍起になっていることが、大きな問題になっていると思います。
エンタメ業界で華々しいピンスポットライトを浴びるのも、ツアー中のホテルの窓からテレビを投げ棄てていいのも、そういうことが(ギリギリのところで)許されてきたのは、ほんのひと握りの極限られたアーティストだけです。今の日本はまず品行方正でないと才能まで覗いてもらえない。「外側」がとても大事にされています。
商業的な才能やいかに自らの音に価値を持たせるか、など、さっきも言った演奏以外の部分(例えば現場での挨拶の仕方とか、SNSの活用だとか)に特段神経質にならずとも、研ぎ澄まされた一音を奏でることで、人として終わってるような演奏家でも全てを覆すことができます。できました。今は、判りませんが。どちらにしろ、繰り返しになりますが、それはほんの一部の、ほんとうに世に求められるアーティストに赦される勲章のようなものです。
これを言うと諸先輩方は精神論を解きたくなるでしょう。まずは心から、と。それには賛成しますが、まず保身(仕事上の立場だけでなく、精神面でも)に向っている諸先輩方の場合、この文章で発露した反発こそ自らの表現への一歩だということを、いい歳こいて未だそんな根本的な理すら承知できておられない証明になるし、相手にするつもりはありません。
ごたくは抜きにして、まず金を稼がないと、プロフェッショナルたり得ません。新人は常に戦いですが、その戦場の環境を作り出したのは、少なくとも先輩方、近々ではあなたたちなんですよ、と言う他ありません。もちろん僕もそこの端くれに含まれています。だからこれは、まだ衣装にお辞儀の折り目もついていない新人にしか相手にされない、可哀想なベテランに向けた言葉なのかもしれません。
僕たち「後進」は先人たちの分けた枝葉のもっと先っぽのほうにいます。もっと、さらに分かれていきたいんです。だから「最近の若者」はいつの時代も妙なことに拘り、肝心のことが抜けているように見えるものなんです。前の世代のうざいところに反発し、自分たちの流儀が生まれる。しかしそれも、彼ら個人個人と触れ合ってみると、あんがい個々は世代の傾向にただ染まっているわけではない。やはりいつの時代も同じように、個人であることに変わりありません。それを、大仰な精神論(つまり他人にとっては取るにたらないその人持論)で片付けてしまうのは、形だけは付き合いますが、あまり意味深い時間ではありません。
「先輩」なのに、そんなことも判っていないのは、いかがなものでしょうか。そんな人の作る時代は、どんなふうでしょうか。だからこの読本は、通常はもう少しはっきり物を言い、その陰でこうして何を話しているのか判らない話を話し続けていきたいとも思います。
やはり若者から見れば、いつの世も上の世代は大雑把で繊細さに欠けているものです。それは見ているものの距離が違うんです。歳を重ねるほど、より奥を見ようとする。それが「思考」です。
まぁ主観の逡巡を「哲学している」と思い込んでいる人には、いくら言っても伝わらないかもしれませんが。
2022.07.04 チェリスト・塚本慈和