レッスン・言葉に至るまで

レッスン①言葉に至るまで

 演奏をするためには、まず楽器の奏法を学ばなければなりません。そのためにレッスンがあります。近年ではいわゆる見様見真似の我流、独学でも、ある程度精度の高い情報はたしかにネット上にも散見されるようになりました。その情報を精査する能力がないから、結局うまく使うことは現代ではまだ難しいことだとは思いますが。
 つまりレッスンは、両立の難しいあらゆる方法論や流儀を定めて、先生からその限定された技術やそこに至るプロセスを教えてもらう場です。芸術、娯楽、趣味、仕事、表現…どんな言い方をしても人それぞれですが、やはりその性質上、エステだけ通ってフォアグラ食ってるようなセレブリティな感覚で施しを受けるつもりではなく、きちんと根っからなにかを「学ぶ」姿勢が問われます。
 先生方は、もちろんその姿勢によってあからさまに態度を変えたりはしないでしょう。ふんぞり返っている生徒さんのことは、より大切に扱ってくれるかもしれません。先生も仕事ですから。音大生の親が先生に苦情の電話を入れる、というのも同じことです。電話をするかしないかは場合にもよるし当人同士の自由ですが、そもそもそんな発端になってしまう半端者の生徒に、音楽の世界でやっていける素養があるかというと、それが一番不幸な追求になってしまいます。セクハラとか暴力とか、そういうことは当然別ですが。
 先生のほうは先生のほうで、「レッスンの時どう言えば伝わるのかいつも考えている」とか「レッスンでは言葉に気をつけている」というような自覚を持った先生には、僕はあんまり習いたくないと思います。僕の習っていたF先生がそういう教え方に見切りをつけて、気丈で非情なレッスンをする先生だったからかもしれません。必死に食らいついていかないと、なにも教えてもらえない。そういう焦りが(あれでも)いつもありました。
 言葉は物事を限定してしまいます。不用意に刺さると論理的思考にロックがかかることになり、下手をするとその後の人生に悪影響を与え兼ねません。そんなことを言っていたらレッスンはおろか外も歩けなくなる極論ですが、先生とは、「人に教える」とは、常にそこに立ち返りながら内省されるべき仕事なのではないかと思っています。
 判りにくいので、音楽家らしく例えれば、「不倫をした人を叩くのは不倫を我慢している人だ」という論調があります。それも一つ真実には変わりませんし、誰しも心理的な表裏に心当たりもあるので、なるほど、と思います。ところが、実際には家族を守る清潔な生活に徹し、生理的に嫌悪しているほうが反応としては素直で、たぶんそういう人が多いはずです。そういう人は叩いたりはしないのかもしれませんが、そういう理由で叩く人もいないわけではなく、全体を想像してみると「我慢している人」はごく一部でしかありません。しかし前述のようにそこに筆を下ろすと、あたかも世界はその色に濃く染まっているかのように感じられます。
 だから自ら「レッスンでは」と限定した思考でレッスンを考えている人は、特に本業が「演奏家」でその功績で先生としてレッスンしている場合(ほとんどがそうだけど)、自分の一番精通している世界をわざわざ断絶してレッスンについて考えていることになります。それではうまくいきやしません。
 しかも、言葉というものは、話者が発した通りの意図で相手に伝わるかどうか、ほんの些細なずれが解釈の大幅な差異を生むものです。
 いつからか、西洋音楽を学ぶためには西洋文化に阿らねばならないような、なんだか宗教じみた考え方が日本クラシック音楽の世界の根底に根付いています。どんなことしたって肌はマッキッキです。日本は日本古来の「やり方」があって、その世界の(例えば歌舞伎や能や雅楽など)言葉を盗み聞きしてみると、つまりは「伝統」というものの重んじ方がそもそもからしてバッハやドビュッシーとは違っています。日本人は日本人として世界にアピールしなければならないし、日本人のベースにある「教科書」の概念を無視することが、これからの日本文化の未来を拓いていくことにも繋がると思います。だって教科書って、ちょっとダサいってことだから。そういう誰がどう見てもみたいなフォーマットに納まって安心しているところから常に抜け出そうとしているほうが、明日を迎えるにあたって僕の場合寝つきがいいです。
 話がめちゃめちゃになりかけていますが、要するに、観念するしかないんです。我がのやりたいようにやるために、でも結構ガチガチのルールがあるから、それをさっさと学んで、自分の力でやっていくしかないんです。誰しもそうしています。先生もそう、生徒もそうです。
 伝統を受け継ぐ時、日本古来の方法は「模倣」です。ある時から日本クラシック音楽界では模倣させるレッスンをよくないものとしました。生真面目な日本人のやることなので、そういう時、外から見るとほんとうに宗教じみるというか。界隈で嫌悪する声が高まり、最近では模倣的レッスンをしている先生が目立つ社会になりました。「押し付けレッスンいたしません」みたいな文言をネット広告に出している教室もあります。レッスンが懇切丁寧な方向へ進みかけていました。
 ところが時代は変わり、若い人たちはもっと奥に真意を隠して表に出さなくなりました。それを「もっと、もっと」と言われ続ける四年間の音大のレッスン。反対に先生からすれば少しでも自発したものを感じる学生は(平成までに比べれば)簡単に「見込みがある」学生に見えます。そんなことがあるあるになりつつあります。
 先生の理想とするレッスンが見事嵌まって急成長する学生ももちろんいます。そういう学生さんや既に演奏家としてデビューしている華々しい若者たちの先生方を拝見すると、押し並べてとは言いませんが、結構ちゃんと「系譜」のようなものを感じる、伝統ある門下生だということがほんとうに多いです。実際に演奏を聴いても、彼女彼らは、それぞれに卓越しています。それが全体の何分の一を占めているのか、割合までは判りませんが。
 音大だから、教室だから、プロだから、アマチュアだから、子どもだから、年寄りだから。言い出したらきりがないニーズに応える完全なサービス業にするには、ちょっと無理があると思いませんか。

 レッスンの在り方は様々です。どれがよくて悪いというものではありません。合う合わないもあります。演奏家として全国的に高名でない先生に手解きを受けて、突然コンクール上位に現れ有名になる師弟もいます。
 しかし、僕自身レッスンを受けるのが大嫌いで(ただあの雰囲気が怖かった)、するのも苦手で、だから初めから「大学の先生」というだけで偉そうな音大の先公とか、教室の責任者で偉そうなのとかサロンの経営者で勘違いしてるやつとかみんな嫌いなので、多少偏屈な屁理屈を捏ねてしまったかもしれません。
 ただ、生徒のことを想うのなら、先生には、自分の原点に正直にあってほしい、とそれだけを願っています。
 僕も自分自身にそう確認して、毎回レッスンに向っています。レッスンを頼まれた時は。最近ほんとにあんまりありませんが。


チェリスト・塚本慈和

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