雑記・経験を積む

 
 高校一年の夏休み、近所のマクドナルドのアルバイトに応募して、一ヶ月ほど働いたことがあります。アルバイトはその他にも英会話のティッシュ配りやとある運転スタッフ、学童の指導員など、両親のおかげで金銭的な「苦労」はありませんでしたが、例えばマクドナルドに勤めたことで、世の中にチェーン展開されているお店には「フランチャイズ」という契約があり、それは個人にとっては実は末恐ろしい仕組みであることもその頃知りました。コロナ禍にあって、家でただ練習していても仕方がないので近所でアルバイトをしたりもしました。
 いろいろあって令和四年、現在に至り、僕は三十六歳になりました。
 大学在学中に大阪シンフォニカー交響楽団(現・大阪交響楽団)のオーディションに合格し、卒業まで一年ほど待ってもらって(いわゆる"ギリ単"だったので、卒業までは単位を取るのに必死でした。最後の授業で不安な講義の先生に頭を下げて回っていた辺り池井戸ワールド全開でした)、大学を卒業してからはオーケストラの団員として五年間、退団して東京へ拠点を移し、フリーランスになってからは七年目くらいだと思います。

 今回は少し真面目に、僕の場合の話をしてみたいと思います。
 ただ「背中を見せる」ことや「音で語る」に足る自信が備わっていないチェリストの駄文に他なりません。しかし、もしかすると似たような不安や悩みに呑み込まれている人がいたら、ずばりその答えにはなりませんが、他人の芝がほんとうに青々としているのがどうか、青々とさせるためにどんな毎日があるのか、恥を偲んで僕の場合のお話を繰り出してみたいと思います。

 僕の大学四年間(国立/クニタチ、と読みます。国立ではありません/音楽大学)は僕にとってオーケストラに入るための四年間でした。
 高校は埼玉県立の芸術総合高等学校音楽科に通っていて、そこの授業内にも実技などのレッスンの時間がありました。そのレッスンでお世話になった櫻井慶喜先生とは、櫻井先生の先生の弟さんに僕が初めてチェロの手解きを受けた遠因もあり、高校生の僕にとって初めて身近に感じる「チェリストの先輩」でもありました。
 櫻井先生は基本脱力系で「怖い」瞬間のない人で、当時から国内外のオーケストラ等へ客演しご活躍されており、お父さまが指揮者をされていたことにも関係があるのでしょうか、言葉の端々に見え隠れする音楽的な教養の深さには常々そこはかとないものを感じさせてくださいました。
 櫻井先生が自ら経験された業界の絶頂期(つまりバブル)からその衰退までを振り返るように、噛み締めるようにしてよく話してくださったのは、「日本だったらオケに入っちゃうこと」でした。そうすれば、あとは好きなことができるから、と。
 当時の日本のクラシック音楽業界では、いわゆる定収入、福利厚生といった「社会」に参加するための職場は、演奏家にはオーケストラや吹奏楽団等しか基本的にはありませんでした。現在ではその他の選択肢が増えたと言うより、定収入が低収入へと下落してしまった両方の線の交わったところに各々いるかんじです。
 僕は高校から大学を卒業するまでの七年間、櫻井先生のご助言に従って、オーケストラに受かるための毎日を送ることにしました。




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