クロスオーバー・前編
クロスオーバー・前編
僕が音大生だった十余年ほど前までは、少なくともチェロで(ガチで)クラシック音楽以外のジャンルを背骨として活動していた演奏家は、スタジオワークやアーティスト活動といった類いの商業ベースに乗った(悪い意味ではありません)音楽家の他にはそう見かけるものではありませんでした。言わずと知れた2Cellosの出現によって、またはその十数年前(平成初期~中期頃)のヨー・ヨー・マによるサントリーのテレビコマーシャルや『おくりびと』のような下地があって、日本国内でもチェロという楽器が「ヴァイオリンのでっかいの」とか「ウッドベースのちっちゃいの」のようにたんに知っているものの界隈のものとしてではなく、個体の楽器として名称と形状が一般に広く知られるようになりました。ちなみにヨー・ヨー・マは漢字で書くと友友馬。その昔、実家のケーブルテレビで流れていた映画『グリーン・デスティニー』をラストシーンから観て、エンドロールで知りました。本編は結局観ていませんが。まあそれはいいとして。
ところが、チェロの「音」というと、どうでしょうか。散歩している街角で、テレビのBGMで、お気に入りのバンドの新譜で、そこかしこにチェロの音は鳴っています。チェロの音色は「癒し効果がある」なんてよく言われますが、それは反対に言えば「音」として刺激と感じる成分が弱めということであり、あらゆる楽器に混ざってアンサンブルやオーケストラに含まれると、だいたいは埋もれてしまいます。音のアタックだったり、その楽器が秘めている音圧や倍音のポテンシャルだったり、さまざまな要因が関わってきますが、チェロの弾き手として個人的にできる工夫は「でっかい音が出せるようになること」と「倍音をちょっとまとめて音の輪郭を明確にすること(やり過ぎると悪い形容ではいき過ぎたそう言う音を硬い音、とも言います)」くらいのものです。結局、その時同時に鳴っている他の楽器の帯域、音量、音圧、それらを日本クラシック業界の現場では総称して音色とまとめてしまっていたりしますが、とにかくその音色をうまく混ぜ合わせないことには「演奏」になりません。
例えば楽譜に「f(フォルテ=強く)」と書いてあるからと言って、各々が各々の都合や志向で「強く」音を鳴らすと、まあだいたいは汚らしく喧しいただでかいだけの音が鳴るだけで、少なくともそれは作曲者の意図した「f」ではない。簡単なことですが、とても肝心です。しかも、奏者がお互いのバランスに注意し、つまり耳を使って「f」が適正にブレンドされて鳴ると、それは各々が目一杯強く奏してぶつかっている音よりも、遥かに太く、大きく、強い音がします。それについては音響学的な見地で俄かな解説を添えることもできますが、門外漢なので、今ここでは控えます。
クラシック音楽に限定してみても、アンサンブルをする上で気をつけなければならないことが山ほどあり、しかもそれは実地での経験からしか自らの望み方を模索することがほとんどできません。レッスンで、経験豊かな先生から齎すことも難しい。
その上で、現代では、あらゆる音楽を混ぜこぜにして「クロスオーバー」というかっちょいい呼び名で演奏家がジャンルを平行移動するようになりました。それも、そんなことをやっているとベートーヴェンが弾けなくなるよ、なんて明後日音痴な角度から物を言う諸先輩方が減ってきて、残党も口を紡ぎ出したからで(日本の「集い」はコミュニティモデルが共通して「学校」なので、カフェや教会等に集う西洋人とは根本からして意味合いが異なります。だから多くの日本人が十代の頃の経験則に縛られ、なぜかわざわざその重い鎖に繋がれたまま新たな人間関係を構築したり組織に入っていきます。結局日本人のそういう集いは「下に合わせる」ことと「多数決で決める」ことが前提となります。そういう「読まなければならない空気」がリハ室内に充満します。オーケストラや小編成のアンサンブルとて、現状その例外ではありません)、では各ジャンルの音楽家が青い隣の芝へ入っていってクロスオーバーしてみた時に、そこにきちんとしたノウハウのようなものが構築されていっているかというと、そういうわけでもない。考えてみると判ることですが、わざわざクロスオーバーと銘打って組み合わせるんだから、それは端から奇特な取り組みであり、前代未聞の組み合わせを探るところからそもそもが始まったりすることもざらです。その時、企画立案者(バンマス)の頭の中にあるのは「ニューサウンド」なわけだから、当然なんですが。
そうなると、ノウハウの構築もク○もありません。
日本人特有の継承する感覚、要するに「伝統」を盾に、しかし西洋文化に阿るような演奏をする巨匠(と呼ばれる裸のチェリスト。チェリストは楽器を構えちゃえば安心してください、見えませんからね)たちに辟易し、「未知なる道」を追い求めてクロスオーバーに至る発想もあるようです。だからそこにはまだ、先人の手垢のようなものはついていないのです。まともな人は、誰もつけようともしない。企画を打ち出す度、常に試行錯誤の繰り返しだからです。型なんか一向に定まらない。
既存のクロスオーバーステージに憧れて、自分もやってみよう、と思ってそっちの方向へそのまま一歩を踏み出す方には、つまんない理屈を捏ねているように見えるかもしれませんが、僕の音の発露にとって、これはとても大切なことなのです。
クロスオーバーする時は、もちろん大抵はさまざまなジャンルに共通するツールを使って(例えば楽譜など)ある一定のところまで距離を近づけてからリハーサルに入ることになりますが、そういうリハーサルには「無駄」も付き物です。憑き物かもしれません。クラシックの西洋楽譜を基盤に準備をするとすれば、そのままの記譜法では普段コード譜(リードシート)で演奏しているジャズやポップスの人たちにはいまいち作曲者(或いは編曲者)の意図が伝わりません。おそらくそれは彼ら彼女らにとって「制約が増えること」のように感じられるのではないかと推察します。それでさらにそこに邦楽(雅楽器や三味線などなど)が加われば僕もまるで読めない漢字の楽譜だし、しかもそれは流派が変ると表記もぜんぜん変わってしまいます。もっと言えば、地球の南半球側には未知のリズムや和声の響きの新鮮な発想がまだまだたくさんあって、それぞれに民族音楽毎の楽譜やそれに代わるなにかがあったり、日本ほど裕福ではない国の民族のあいだでは、未だに口伝で伝承されている音もたくさんあります。そんな人たちとどうやってアンサンブルを「始める」のか。当然、「やる」という段階の前に「始める」というプロセスがあり、それまでに(リハーサルが始まるまでに)楽譜や音響設備や演出など、大方のイメージを持っておいて、現実の問題と折り合いをつけながらステージの実現まで迫っていくことになります。「音楽は国境を超える」なんて言いますが、たぶんブラジルに住み現地から出たことのないような人を連れてきて『越天楽』を突然聴かせてもそれはほとんど拷問とか刑罰に近いことになるだろうし、反対に、未だに喫煙席のある古びた喫茶店に入って本格的なサンバが店内BGMとして流れていたら、僕はたぶんお店を変えると思います(それで例え禁煙席しかないお店に入ることになっても)。
音楽は耳から聴いて頭で分析してなにかが自分の中で腑に落ちたからといって消化できるものではないので、言葉が通じない相手と未知なる音楽を創るのは、相当難しいことなのではないかと思います。だからこそ、慎重になるべきところです。そこを疎かにすると、よく目にする「ただ演ってる」だけの、音大生の学祭の延長のような、お粗末なクロスオーバーが氾濫することになるのだと思います。
本来、ジャンルをクロスオーバーする醍醐味は、水と油のような関係の音同士を組み合わせ、重ねることにあると思います。