雑記・シャコが嫌い
例えばある日ATMで残高を確認して、口座に百億円振り込まれていたとして、そのお金は貰えるとして、今の仕事を続けるかどうか。
とても意味のない「たら・れば」ですが、啓発系のSNSアカウントが呟いていた内容に少し肉付けしてみました。僕は今の仕事は、お金があってもやめられません。細かくは違いますが、簡単に纏めると、音楽にほんとうに依存して生きているからです。
僕の先生は日本を代表するオケの首席で、高名です。先生は「チェロは仕事」と公言しておられます。他にも、そういう方はたくさんいらっしゃいます。当然言葉の額面通りではないにせよ、"諦め"とか"忍耐"のような機微を感じてしまいます。
また、近頃はめっきり減ってしまいましたが、呑み会のテーマとしてもこの「仕事のスタンス」はよく取り沙汰されます。誰と誰が不倫してる、みたいな話がひと通り終わってしまったら、そういう真面目な(くそかったるい)議題に進むことがあります。場のアルコール浸食度も影響するのかもしれません。
そういう会で「僕は/私は、魂が音楽を求めています」と平然と言える人がいます。凄いなぁと思います。この言葉をそのまま宗教的に直すと「南無音楽」で、非常に抹香臭い。
音楽と宗教は符合する部分が多く、そもそも西洋音楽は宗教によって相乗的に発展してきました。音楽などの芸術の力がなければカトリックがここまで世界へ浸透したかどうか判りませんし、聖書自体の抽象性(しかし素晴らしい)もまた然りだと思います。仏教はもっと具体的です。お坊さんの説法なんかは、不勉強からなのか抽象的で曖昧な「日本語表現」に逃げている場合が多々ありますが、その教義も大元は日本語で書かれたものではもちろんありません。
なにを信じるかは自由です。なにを信じるかは、どう生きるかということに通じています。他人が口を出したり、憚ることではありません。例えばよく言うように、食べ物や食べる環境を信じているから、いずれ自らの血肉になる物体を平気でぱくぱく口へ運ぶことができます。
僕は食べ物の好き嫌いがないように両親が育ててくれましたが、シャコだけは食べられません。アイツらは僕にとって虫だからです。インターネットで調べたら、グロテスクな写真がたくさん出てきて、怖くなりました。その写真を見た僕は、他方へシャコの恐ろしい習性や足の多さを訴えかけます。ところがほとんどの人は笑って済ませて、回ってきたシャコの皿を平気で取ったりします。反対に、アンチシャコの人と互いの"シャコ嫌い"シンパシーが通じた瞬間、突然「判るー!」と、シャコのなにが嫌いかすら意見を交わしていないのに、嬉しそうにする人もいます。僕は別に、常日頃シャコが絶滅すればいいと思って暮らしているわけではないので、そこまで果敢に同調する姿勢を取られると、ひいてしまいます。そういう人も、僕はシャコぐらい怖い。陰謀論者とか、どこまで深い闇について切り込んでいようとも、そこが自宅や居酒屋だったら、やってること自体はそう変わるものではありません。
ほんとうにいいものを、ほんとうにみんな、「いい」と言えているのか。誰でも思いのままに発信できるようになったけど、散見されるのは「なにを言ったか」ではなく「誰が言ったか」が未だ重要となるようです。もちろんケースバイケースですが。みんながブランドの裏づけや周囲の意見に目配せしつつ感想を述べるような意味の判んない世の中が続くうちは、当然誰か知らん一国民の声などこれまでの通り抹殺されていく国家なのは明白です。というか、大衆心理がそもそもそういうものなので、別に国の政に口を出したいわけではありませんが。期待していないし。
僕は「宗教」という集まりだけで気持ち悪いと思うことはありません。昔からなので、日本人の感覚で言うところの貞操感が緩いのか、ともすればふつうに変なのかもしれません。友人にもあらゆる信仰をもつ人があるし、自分で読み進めるあらゆる宗教についても、自分の中ではほとんど既存の哲学との線引きがありません。
思想や理想が混ざり合って、もちろんまだまだ整理整頓へは程遠い(というか、死をもって"今世"は一旦完結する)けど、僕には僕の背骨があります。
ところがその"背骨"は、誰しも人に見せるようなものではありません。隠そう隠そうとするはずです。己の弱い部分や、ほとんどの発想の答えが詰まっているから、見せたくない。小学生の頃、集会で体育座りさせられると、前に座るクラスメイトたちの背骨が衣服越しに浮き上がっていました。身体が柔らかい子どもの浮いた背骨は、背筋に沿ってシャコの足のように分岐する肋骨の筋の辺りでいちいち窪んでいて、今思い返してもグロ画像に近い。嫌いでした。もちろん、それが"集会"という元よりかったるい場面だったことが一番の要因ですが。
人の信じているものを否定する必要はありません。少なくとも現代では。日本も一応、もう鎌倉時代ではありません。
背骨のない人が口を出してきます。それらに取り合う必要もりません。判っていても、という人は、ご自身の"判っている"状態を、もう一度見直すことをお勧めします。たぶん楽器を弾くと音程がだいたいだったり、リズムが曖昧だったりするんじゃないでしょうか。
独自の基礎があり、それを守っていれば、とりあえずブランドは作れます。作為的なブランドを立ち上げてしまうと、それは常に輝いていなければならないので、ほんとうに才能に恵まれていないと厳しいことになります。日本人の気質はどちらかというと職人です。職人と芸術家はもちろん違います。
職人が芸術作品を遺すとしたら、どんなアプローチをとるでしょうか。西洋音楽、外来文化だからといって、他方ばかりに目をやらず、まず足下から考えてみる。それこそがオリジナリティの第一歩だとも思います。