クロスオーバー・後編
クロスオーバー・後編
僕たち演奏家にとって、従来のクラシック音楽に用いる西洋楽譜は、初めのうちはたんなる地図のようなもので、まずはとにかく直列に音が並ぶ「パート譜」のゴールまでたどり着くことに精一杯で、ある程度弾けるようになってきても、しばらくは自分のパートの譜面を読むのに目一杯時間を使うことになります。そこから一歩大きく足を踏み出して、アンサンブルなんてことになると、『クロスオーバー・前編』内で先述の「他の響きとのブレンド」という岐路にそこで初めて立たさされて、だんだん他所の楽器の特徴なんかに本質的な興味がわいてきます。
「クロスオーバー」は、あくまでこの興味の延長線上にあるべきでないでしょうか。と、言うのも、安易なクロスオーバー風のものは楽器が弾ければ誰にでもできて、寧ろきちんとした編成を組むことが叶わないアマチュア演奏家たちのほうが、そういう歪な編成で果敢に本番を重ねたりしています(アマチュアの仲間内では例えば弦楽四重奏をやりたいのにヴィオラの知り合いはどうしても気持ち悪いおじさんしかいない、とか、あらゆる障壁があるようです)。
綺麗事ではなく、音楽に関してプロだアマだと言うのは僕はほんとうに嫌なのですが、自分がプロを自称している以上、その線をどこかにひくことを避けるわけにはいきません。もちろんそれを対外的に強要したりしませんし、共通認識のつもりで抱えているわけではありませんが、自分の中での最低限のルールとして設けてある「プロ意識」と言われる僕のそれらは、費やすことでしか測ることができません。アマチュアだってハッとするようないい音を鳴らす人がいくらでもいるし、無料アプリで打ち込んだとは思えない先鋭的なトラックを作る中学生なんかも(SNSでですが)見かけたりします。
こと、演奏の技術に関して言えば、楽器にもよりますが、やはりかなりの労力や時間、お金を注いでようやく身についてくるものです。一昼夜でどうにかなるものではありません。一応それを各自ある程度突き詰めているものとして、そこに「クロスオーバー」な発想が想起された場合、簡単に言えば「プロはやっぱり凄い」というサウンドを鳴らさなければ、各個人がいくら超絶的なソロを展開したところで、お客さんからすれば「いい演奏会だった」とはなかなかならないんじゃないか。そんなもんではないんじゃなかろうか、と、それこそあらゆるジャンル、国籍の奏者と音を重ねてきて感じています。国籍のほうは、僕はおそらく経験が少ないほうですが。
自分の音楽、自分の音、自分という人間。それらはどうやっても外側から俯瞰することができないのでやっぱり誰にとっても正確に見定めるのは難しく、常に探り探りの感触ではあります。しかし自分がプロなら、費やすのなら、僕はそこに思考を凝らしたいといつも考えています。
自分や自分の身の回りの音について突き詰まっていないと、またはそういうことに敏感でなくなってしまった人は、安直に他方へ刺激を求めます。その成れの果てが安易なクロスオーバーだと思っています。
反対にクラシック演奏家で未だに「ポップス判んない」とか「ゲーム音楽だから」とか口にする人がいますが、今ではどんなクラシック演奏家でもそれら他のジャンルの曲を「絶対に演奏しない」という人はまずいない。寧ろ、仕事の少ない大学を卒業したての内は、ジブリやディズニーを筆頭に、あらゆるジャンルの「耳馴染みのいい」楽曲を演奏する営業仕事の機会も多いはずです。そういう時、「判んない」で片付けている人は、どう折り合いをつけているのだろう。どうやってステージに立っているのだろう。僕にはそっちのほうが判りません。どちらにしろ、仕事としてもう当たり前に「クラシック業界」に入り込んできているクラシック以外の音楽を、未だそんな距離で見つめている人の演奏するベートーヴェンやモーツァルトなんか、僕はまるで興味がありません。せっかく、音の世界では最大規模の「古典」というジャンルに身を置いているのに。やろうと思えば、カラオケ文化にも自然と親しんできているんだし(最近はD T Mにその座を奪われつつありますが)、成長過程でクラシックしか聴かなかった人のほうが稀だと思うし、楽器を扱うことができるのだから新しくやらなければならないことは「応用」や「置き換え」くらいのものです。それでも不安を煽る要因の一つが「レッスンを受けていない」ということだとしたら、もったいない。し、もしかしたら、そういう人は職人たり得るかもしれませんが、芸術うんぬんかんぬん、そういう内向的な生産には向いていないのかもしれません。
「安易なクロスオーバー」に陥らないために、まず最初に大切にしたいのがもう何度も書いていますが、楽譜です。
クラシックでは直列譜(パート譜)からスコア(総譜)という並列情報の譜面に触れることで、全体像を視覚的に(つまり知覚的に)把握します。クラシックの演奏家はだいたいこの順番です。リードシートを見る人たちは、そこには簡易的なメロディとコードが振ってあるだけなので、全体像を共有しながら、その場で各パートのアレンジをまとめながらリハーサルが進むこともあります。ちなみにクラシック関係の演奏家はだいたいこの時間に非常に退屈します。それはこうして手順を追ってみればある程度お互いに仕方がないと判ることなのですが、クラシック奏者はどうも「効率=能力」という一般社会ごっこをしたい人たちが今まで多かったみたいで、怒り浸透で「二度とやるか!」という人もまだたくさんいます。
とは言え簡単にその人が悪い!とは断言できません。その人にとっては、その「無駄な時間」がなければ、他にもっとたくさんのアイディアを持ってきて全体の演奏をブラッシュアップするつもりでリハーサルに望んでいたはずですし、だから憤慨しているはずなので。だからそこはお互いの流儀を尊重し合う気持ちと、なるべく無駄を省くための事前の準備(つまり楽譜の仕込み)が相当肝要になります。「やりたい」だけでほんとうの意味での実現ができたら、世の中もっと夢に溢れた御伽噺の国のようにふわふわ浮ついているでしょう。でも違う。少なくとも、今、日本は違います。しっかり地に足をつけていても、優れた演奏家がこのコロナ禍の内にどんどん振り落とされていきます。それを脱落とは決して言いたくありませんが、哀しいことです。「元々音楽なんて娯楽」だから、同情の余地もないみたいです。仕方ありません。そしてそれでもステージを踏むのなら、それは飛沫感染を拡大する要因を一つ自分で作るようなものなのだから、生半可ではいけないと思うのです。
それぞれのジャンルによって譜面の在り方が違うのは、それぞれのジャンルに即した記譜法というものがジャンル毎にどんどん細分化され、極まっていった結果です。人が集まってグループや団体になる時、それぞれが同じパーセンテージずつ譲って、ほんとうに全体のど真ん中に折衷案を置けることなどありません。ましてや音楽家は基本的に傲慢だから(「傲慢」というひと言に集約するのは無理があるかもしれませんが、それはステージで必要なものでもあります)、相手に寄るより自分の音楽で場を呑み込もうとする人も多く潜んでいます。それをどう纏めるか。考えても考えても、まず僕の中から「楽譜から」という観点(というより根拠に近い)が抜けることはありません。
もちろん、西洋音楽の現在の状況はある程度判っているつもりです。
従来の記譜法を大幅にアレンジしてみたり、大胆な図形譜なるものを準備して、「演奏家と楽譜」という関係(因果関係とも言えるかもしれません)にテコ入れしたい目論みも判ります。ところが、演奏者からするとそれらは果てしなく無尽蔵過ぎて、だったら初めから偶然性を多様に含むコンピューターを用いた音楽のほうに僕の興味は引っ張られてしまいます。
だから頭ごなしに楽譜、譜面、と言うつもりはありませんが、そこに拘るのは自分が「演奏家」であるか「音楽家」であるかということにも関わってきます。現代では、演奏家は譜面を書かなくてもいいことになっているので、ほんとうに譜面を書かないタイプの演奏家と音を重ねていると(大抵ちゃんとは重ならないんですが)余計にそんなふうに感じます。
少し長くなってしまいましたが、同じく『前編』に書いたヨー・ヨー・マも、だから00年代頃には特に「シルクロード」に拘って、各楽器の持つ「音」そのもののルーツをたどるような活動に熱がわいたのだろう、と僕は推察しています。
それまではクラシックの演奏家は基本的にクラシックの演奏家としか出会わず、同じような苦悩を角度を変えて各々が悩み、下手をすると同族だけのコミュニティ内で血が濃くなっていくばかりでした。今は違います。クラシック奏者が他ジャンルの奏者と相見えた時、「他のジャンルの人」と思うのか、「まるで違うプロセスを踏んできて真逆とも言えるアプローチで音楽する人」と捉えるのか、「その人の、今ここで鳴らしている音」と感じるのか。
クロスオーバーには、その辺りの観点がとても大切なのではないかと、さまざまな音楽家、人と出会う度思い知らされます。
やるならきちんと、少なくともその時共にステージに立つ者同士同じ方向を目指すという意味で、ある程度そういった姿勢が共有できているほうが、もっと音の模索のほう(本質的なほう)に時間を回せるのではないかと思います。