実相
こんにちは、領です。
いつも思考がグチャグチャです。
前回、書いた「円相と人」のイメージはこの画像です↓
この画像のイメージを言葉で表わそうとすると思考がグチャグチャで何から書けばいいのか分からなくなって、とりあえず書き出してみることになります。
今回書きたいことはどちらかというと感触みたいなもので、また思考がさらにグチャグチャです。
とにかく書いてみます。
書きたいことは、「物理的に実体を持って人や世界が存在する」「自分と他人は独立自存の存在として繋がり影響し合う」などなどの思考が顛倒夢想ということについてです。
うーん、何か違うかも・・・書きたいことは、
「他者を自分から切り離して独立自存の自由意思を持った存在として裁くこと」この思考が顛倒夢想といえる構造についてだと思います。
表層的な構造ではなくて、実相(空相)の構造から「裁く」現象を眺めてみて思ったことを書こうと思います。上手くまとめて書けるかな?なんとなく私の思う世界観を書けたらいいなと思います。
注意:この世の構造を考えたら、「それは顛倒夢想です」と言うことすら顛倒夢想で堂々巡りです。それでも書きます。
もちろん、犯罪とかパワハラなど大嫌いです。裁かれて欲しいです。「裁くこと」「嫌悪すること」を顛倒夢想だからやめるということではなく、この世の空相(実相)はどのように存在しているか考えるだけです。「裁くこと」「嫌悪すること」「許すこと」「受容すること」を全くゼロにすることは人間には不可能です。
適当に、思考の部品を書きます。
悟っていない状態の人に対して、「凡夫」って言葉の響きが悪いと思います。類語辞典に「あんぽんたん」と書いてありました。
生死に迷う衆生、煩悩に覆われて明らかに見ることができない、彼岸に達する人々は少ない、多くの人々は此岸でさ迷っている、苦界に沈みたる衆生どもを救い助ける、実に哀むべき徒なり、なぜ悟りを得ようとしない、迷い、無明、妄心、愚劣、迷道の衆生、凡夫の心は合蓮華の如し、仏心は満月の如し・・・
結構ひどい言われようです。
ホログラフィック原理についてのメモです。
「私たちは三次元の空間を実在のものだと感じています。しかし、三次元の宇宙は全て、空間の果てに置かれた二次元の情報から存在を現わすという考え方。」
「現実の宇宙は平面に記述された情報にすぎず、全ての本質は情報にあり、エネルギーと物質は副次的なものに過ぎない。」
「この宇宙の全ての情報が二次元平面に保存されている可能性があることが示唆される。」
「三次元の立体像を二次元の干渉縞として記録するホログラフィーのような性質が成り立つ。」
「三次元の宇宙は、実体として見えているだけ。」
「見るもの、感じるもの、聞こえるもの、三次元の空間、そこに働く重力、時間、物質、エネルギーなどは、空間の果てに置かれた二次元の情報から投影されたもので幻影ということになる。」
「私たちの宇宙とはるか遠くの巨大な面に記録された物理法則と完全に等価だ。」
「ホログラフィー原理によると空間はより根源的な“何か”からできた幻かもしれない。」
「ホログラフィック原理は数学的に証明されているけれど、それが実際の宇宙の実存かどうかは意見が分かれる。」
「三次元と二次元どちらがより本質かという問いは意味が無い。」
空相(実相)のあり方について考えるとき、全てを等価にする思考が実相を示唆すると思います。何もかも等価に納める方程式が万物の理論になる。何もかも等価に観ることが悟りに至ること。0次元でも何次元でも等価な気がします。さらに、時空のどこを切り出しても縁起縁滅の法によって全てが現われます。
パウリの排他原理メモ:原子中に同じ状態の電子は存在しないことを表している。一つの軌道に電子は上向きのスピンを持ったものと下向きのスピンを持ったのがあるため、それぞれの軌道で2つしか入ることは許されない。
数学的に、電子が同じ軌道に2つ入るとその波動関数は消えてしまうので、電子は同じ軌道に2つ入ってはいけないということです。
私たちは、ものに触れることができます。そのこと自体、物が実体を持ってそこに存在しているように感じます。でも、私たちの触っているという感覚は、原子核の周りの電子の反発する力によってすり抜けないで存在を感じるだけです。関係性によって触れているという現象が現われているだけです。
「悟り」について:「人類に課せられた目標」「真の目的地」「悟りを知らなければ何も知らないのと同じ」と語られます。
でも、悟りの境地において、全ての価値観を離れると言うことは、「悟り」に対しても価値を離れると言うことです。
「意識」について:顛倒夢想とは、この世の全てに固定的実体を持って存在すると思うことです。留まることなく変化し、執着して望みの状態に維持することはできません。
顛倒夢想の一番扱いにくいものは、「意識」だと思います。
「意識」があると思える現象があるだけです。「意識」「意志」「目的」「理由」「それらに伴う動詞」「思う」「感じる」「行う」「執着する」、これらはそう見える関係性であって数式に表せます。
そう見える関係性の数式が存在し、その数式が業縁です。
「この身は影の如し、業縁より現われる」は、数学的に説明可能です。
受想行の主体「識」、個人の認識の総体「識」、主観「識」、は仮に現われた現象で実体はありません。
私たちが思うような単独で自立し能動的で、縁起する状態から一つ抜け出してシステムの外から作用すような「意識」「意志」「動詞」「力」は存在しません。
悟っても縁起のシステムの外で五蘊をコントロールすることはできません。
波動関数によって現象が確率で記述され、その全てが起きるとき、私たちが思うような世界に影響を与える「意識」「観察する」は必要ありません。独立自存の宇宙のシステムの外から見つめる「神の観察」は、必要ありません。
脳や人の心は世界を創造していません。「創造する」という動詞が存在しているように解釈できる関係性と変化があるだけです。凡夫である状況を独立自存の自由意思で作り出したわけではない構造です。縁起縁滅の法に従って、決定論で存在するだけです。
能動的に自律的に自由に単独で存在していません。
私たちが響き合い干渉するのではなく、響き合い干渉し現われたのが私たちです。
一切の響き合いの干渉、つまり一切の業縁が潜在して五蘊皆空という境地では、業縁の中心にありながら気付かれていなかった「観」を如実に知ることになります。
この「観」が「意識」「意志」「目的」「理由」「それらに伴う動詞」「思う」「感じる」「行う」「執着する」という関係性の状態に実存の質感をもたらします。気づきをもたらします。
そして、「観」は唯一として存在するので「全ての人が同一人物」という構造を持つことになります。
と、そう言われても実感は、わかないと思います。
生き方の変容にまでは至らないと思います。自分の執着する思考から離れるまでにはならない。なんとなくそう思います。
「他者を自分から切り離して独立自存の自由意思を持った存在として裁くこと」
この構造を変えることは、難しいのかもしれません。
全時空に存在する全ての五蘊に唯一の気づきが不可分に存在し、「全ての存在は同一人物」「全ての人物が自分」「たった今自分」ということの当事者が自分なんだという感覚はあまり気持ちのいいものではありません。毎年、8月の戦争に関する番組は見ていますが、酷すぎます・・・。生きて帰す気が無い。(補足:「自分」も仮に顕われた現象です。その中心の「観」が実相です。その「観」がこの世に存在する、いくつもの「自分」を全て「観ている」ことによって、全ての「当事者が自分」という構造を可能にします。)
一切を等価に観ることが、悟りの構造であるとき、「他者を裁く」ことは悟りにいたらないで、個を維持することになります。悟ることも個を維持することも等価であるとき、どっちが上、下は問うことが不可能です。
何が言いたいかというと、「全てを等価にする」が実相であるとき、
「あいつはけしからん」「あのものはこのましい」
「あいつは怠けている」「私は努力した」
「他者を責める」「他者に与する」
「人命より利権」「人命第一」
「執着する」「執着を離れる」
「顛倒夢想」と「顛倒夢想から厭離」
「あの人は覚者ではない」「あの人は覚者だ」
これらを等価に観る構造が実相ということです。
ルビンの壺の構造です。どちらも欠けることができません。その両方が存在しないとこの世に現われることはできません。そういえば、昔、ルビンの壺を描くことが好きでした。
弦理論:弦は弦以外の全てでできている。
「今のあなたはあなた以外のものでできている。」も同じことで、数学的な構造です。
これによって他者への絆や感謝、尊厳を持ちましょう。・・・という表層的なものではなく、自分と他者もルビンの壺の構造です。
過去世、来世というとオカルトな印象ですが、人という関係性の情報の構造によって、過去、現在、未来が表わされているイメージです。(世界線に共有されているモノほど過去など)
人は今生の時間の流れという構造の中で来世を紡いでいると見ることができます。今生の好きと嫌いが、来世で反転する。来世は今生で一番嫌いなタイプになる。一番嫌い(拒否)という感情にエネルギーを割いたものになる。前世と考えても同じです。重ね合わせなので単純ではないですが・・・。基本的に振動します。
私なら、もう何もこの世に印象を持ちたくなくなります。好き嫌いに偏りたくなくなります。好悪を離れたい。
それでも偏っちゃいますが・・・。
嫌いなタイプの人がいるとします。攻めたくなったり怒りを感じたり批判したくなったとします。それは、自分はそんな人にはなり得ないと考えている部分があるからだと思います。
でも、にらんだ背中は、自分の背中という構造です。相手は、たった今自分であるし、来世、過去世の背中です。振動循環高次化する性質によって、自分と相手が位置として入れ替わる地点まで情報は展開します。同じ情報は一つとして存在しループします。そのループした地点が今、目の前の他者です。因果応報は、表層的な構造にも見られますが、差し引き完全にゼロになるまで展開する構造です。そういえば昔、マイケル・ジャクソンのコンサートに行ったことがあります!小さくしか見えませんでした。『Black or White』のPVにモーフィングという映像技術が使われていて、色々な人種の男女が滑らかに変化する映像があります。おでこの第三の眼を原点に固定して、「今」自分だと思っている五蘊が、「今」他者だと思っている五蘊に滑らかに変化していく。そのように完全な対称性を持って因果応報は展開します。
いろんな人に知られて共有されている人物は、時空上の人から見ると過去世として共有されている構造を持つイメージがします。過去世というより今の自分を形作るエネルギーとして強く影響する感じです。結構、ゴータマ・シッダールタさんが、皆の共有している過去世として見ることができる構造です。「今」で観てみると共有度の高い人という構造は存在し、高次の存在は自由度が低いと感じます。一国の首相ならこの世の存在の維持に必要な動きしか許されません。プラスのことだけできるわけではないので大変・・・。国単位でも良いこと悪いこと両極の影響を持ちます。プラスとマイナスもルビンの壺の関係で存在を現わします。その両方が存在しないとなりません。
宗教的な最高指導者のスキャンダルとか・・・。見せたい自分だけで生きることは不可能です。
昔、恋愛シミュレーションゲームの『ときめきメモリアル』が好きでした。シナリオは何通りかあって分岐があります。過去ほど少ない情報で未来ほど多くなりますが、シナリオの分だけ過去は存在するように見えます。共有されている情報ほど過去であったり、高次の情報としてあつかわれます。
実相(空相)では、自他は存在しない。「全ての人は同一人物」ということをさらに詳しく書きたかったのかもしれません。
いろいろな人生が存在して、今の自分の人生が存在している。全てが表裏一体で相依相関し単独で存在していません。そして、その全ての人生を自分が観ることになる人生という構造です。自他分離の思考やそれに伴う愚かさは、「全てが自分」という思考の持つエネルギーによって安定化していく日は来るのでしょうか?今のままだと何もかもが極端に至り、ぐしゃっと潰れてバラバラになりそうな感じです。どんな道も全体が一体で存在するだけです。可能な未来は全て存在し、その中に今の文明が維持されている世界もあると思います。
私の思考の中にあるものを吐き出したような文章です。本当にグチャグチャです。
ここまで読んでくれた方、ありがとうございます。
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